46.『あなたの手を取る』
まず音が消えた。その次に色が消えて、最後には皮膚を叩く自分の指の感覚さえも消えた。
残されたのは、病の苦しみ。身を蝕む『病の種』の叫び。
──生き残りたい。住処が欲しい。増えたい。
それらと戦う身体。
熱、咳、頭痛、痛み、吐き気、悪寒──その全てに、今は蓋をする。
目を開ける。
目の前にはジェラルドの姿があった。懸命な心肺蘇生で、息は吹き返している。
だが、傷口からは血が流れ出したままだ。
口元につけた白い布地を確かめる。黒い革手袋を両手にはめる。消毒液で消毒したメスとハサミがそばにある。
「……行くぞ」
返る言葉はない。
たった一人の手術。
目標は刺創の状態確認と縫合。
肝臓は、人の臓器の中で特に大切な役割を負っている。
失血が酷い。肝臓には縦横無尽に太い血管が巡っている。そのどれかを傷つけられれば、失血死して余りある。
「……っ」
傷ついた血管を特定し、対処しなければならない。
問題は、今の自分にそれができるかどうか。
病に侵されて、今にも倒れそうだった。顔中に汗が噴き出して、白い布を濡らしている。
自分がやらなくて誰がやるのか。
メスを手に取ろうと、したときだった。
「──遅れましたっ!」
扉が開かれる。
現れたのは、レクシスと同じく白い布で口元を覆ったキノミとパトリツィアだった。
「……パトリツィア、キノミ……」
キノミが近くの机にどさりと鞄を置いて、開く。
様々な種類の薬や血止めの薬草がそこにあった。
そして。
キノミがジェラルドの口移しで何かを飲ませる。
「……清めの香の、薬草です。陶酔効果があるから筋肉の反応と疼痛を抑えることができると思います」
麻酔だ。清めの香にそんな使い方があったのか。
キノミは口を拭って、レクシスからメスを取り上げた。
「レクシスさん、手術はあたしとパトリツィアさんに任せてもらえませんか?」
「……なにを」
そのままキノミは額をレクシスにくっつけた。
「酷い熱です……このまま、震える手指で人に刃を差し込むつもりだったんですか?」
「…………っ、」
頭に冷水がかけられたような気分だった。
「レクシス、焦る気持ちも分かりますが、医者に必要なのは理性……そうでしょう?」
パトリツェアはいつものように冷静だ。
二人はレクシスのそばに寄る。
「私が執刀します。アルミオシオンで基礎的な施術は習いましたから。レクシスは指示を。……臓器の細かなところは、お願いできますか?」
パトリツィアは微笑んで、レクシスの肩を支えた。
「あたしはライアスさんに、輸血用の血液が集まったかどうか確かめてきます! 治癒師のあたしの説得があれば、なんとかなるはずです!」
キノミが扉へ駆け寄っていく。
「あたしが治癒師になったのは、人に幸せになってもらう手助けがしたかったから……そのためなら惜しみません! そうですよね、レクシスさん!」
ああ、そうだ。
どうして、気づかなかったんだ。
レクシスは一人で命を救ったことはなかった。
いつだって、レクシスのそばには誰かがいた。
『君を、救ってやる』
過去の幻影が、その声が響く。
そうだった。これは諦めの言葉ではない。うぬぼれの言葉でも、この先に虚無が広がっているわけでもない。──この先を作るのは、自分自身だ。
諦めるのか?
違うだろう。ここから始めるんだ。
「ジェラルド、お前を絶対に救ってやる」
震える指先を、そっと誰かが握ってくれる。
「始めようか」「始めます」
──叶えられなかった願いに背を押されて。
手術が始まった。
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