45.『切除』
目のくらむような炎が燃えている。
雨が降っているはずなのに、雨に当たりながらも炎は橙色と黄色の混ざりあった生き物のように身を蠢かせながら燃え続けている。
思い出す。
あの日のことを。貧しい両親が家に火を放って、一緒に死のうと言い出したときのことを。
あのとき、両親の瞳には炎が燃えていた。
「……なんで? レクシスさんの研究室が……」
キノミは火事場の周りに集まってきた人たちに押されて、地面に倒れた。
炎がうねり、化け物のように身をよじる。
両親の腕を振り払って、必死に逃げて、逃げ出して、それで……。
「──原初の火は、神が与えたものである」
過去の声が、今、聞こえた。
「──火は幸福を、悲嘆を燃やし尽くすものである」
振り返る。
「──我々は神に祈りを捧げねばならぬ。これからも我らに幸福をもたらさんことを」
そこにいたのは。
「タリゥム師……?」
死んだはずの白い髭の生えた厳格な老爺の錯覚。頭を振って目を凝らす。
違う。
そこにいたのは背の高い老婆だ。
炎の明かりを受けて銀色に輝く白髪。それを背中で纏めている。額には深く刻まれた皺があり、彼女の過ごしてきた年月を容易に想像させた。
瞳は黒を帯びた茶色。背を伸ばして、ただレクシスの研究室が燃えているのを人混みから離れたところで見つめている。
その瞳の奥に隠されているものは、良く分からない。
「あの」
キノミは声をかける。
「ここにいては危ないですよ……」
「……あの爺さんは街の外まで飛ばされたか。賭けは私の勝ちだな……うん、何だ君は?」
老婆はゆっくりとキノミに目を向けて、小首を傾げた。
「早く家にお帰りになったほうが良いと思います……街で起きている火事が心配なのは分かりますけど」
老婆は微笑んだ。
「分かった。ご忠告ありがとう」
「あたしはこれで……」
老婆に背を向けようとした、そのとき。
「でも、あなたはどうやら未練があるようだ。……研究室、だったかな?」
「っ!」
足が止まる。
「……実は、今燃えている場所は、レクシスさんという人とあたしが一緒になって頑張ってきた場所なんです……って、すいません。他の人に話すようなことでもないですよね……」
頭を下げて、俯く。
そこに老婆の不思議そうな声が降ってきた。
「本当にそうかな? レクシスは予防薬を作っており、あなたはそれを手伝っていた。本当に、レクシスとあなたの研究室だったのか?」
「なんで、それを……いったい、どういう……」
老婆は、ただ炎を見つめている。
「予防薬は薬ではなく、正確には『
よどみなく続ける。
「予防薬の理論を書いたのは私だからな。レクシスには感謝をしなければ……まさか、あの理論からここまで完成させるとはね。……少しばかり評価を改めねばなるまい」
一歩下がる。老婆はキノミを面白そうに見つめている。老婆の瞳に眺められているだけで、身体を切り刻まれて、一つ一つ分解されていくようだった。
「あなたは、そう。ツィタルの治癒師であるあなたは、レクシスが予防薬を完成させたとして、それを皆に接種することを認められるのかな? 世界との繋がりを恐れて、作り上げた経典を盾に信仰の殻にこもっているあなたが、本当に?」
老婆の目に吸い寄せられる。まるで底なし沼のような視線だった。深い知恵をもってして、なお全てを吸収しようとする賢者のよう。
老婆は笑った。悪魔でも天使でもない、人間の笑みだった。
「この炎は私がつけた。盗人たちが成果を狙っている、それを妨害するために」
「っ……」
「信じられないか? ならばそこで思考を止めてもいい。思考を止めたまま、人間の持つ最大の力、思慮を忘れて石のように生きていくのも結構」
ゆっくりと静かに歩み寄ってくる。
「嫌なら考えることだ。答えが出ないならば身の回りの人物に答えを求めてもいい」
「どうして……こんなことを……!」
「素早い判断だ。あなたに才能はない。だが、良い研究者にはなる。私が保証しよう」
そこで老婆は炎に目を向けた。
「医術の未来のため、という答えでいかがかな。抽象的だが、それが最もふさわしい」
「未来……?」
彼女の言葉は理解の範疇を超えていた。
「そう、未来だよ」
薄い瞼が瞬く。
「未来を望まぬ人間などいるだろうか。明日を無事に迎えたい。次の年は健康に過ごしたい……そう、未来を願う心が医術の力となる」
炎からは時折悲鳴のような音を立てて、硝子瓶が破裂していく。
色とりどりの薬液が散らばって、更に炎は燃え上がる。
「治癒術は、変わってしまったと、感じることはないかね?」
「……」
「目を背けるな。信仰心でコーティングされた真実から盲目的に目を背けるのは、人を癒やすすべ全体への侮辱だ。医術と治癒術は本来、同一のものだったんだ」
パトリツィアに出会った当初の言葉が思い出される。
「最初の弟子……アルンテラスが治癒術を開いた。私は新しい帝都から遠く離れた地へ追いやられてね。意見の食い違いからの軽い喧嘩だったが……しかし、ここまでなら納得できる。アルンテラスは、頑固だが、根はとても良い子だからな」
老婆の声の調子が一段落ちた。
「許せないのは、アルンテラスを謀殺し、教会に治癒術を権力の道具として統合させた人たちだ。……治癒術は盗人たちの手に渡り、あの子の望みとは違った方向へと暴走している」
その結果が、異端者として火刑にかけられる医者の数々。医者は迫害を受けてますます傲慢に身を閉ざし、改竄された治癒術は帝国の外へその毒根を伸びていく。
「だから、私は『最後の医師』として、帝国を治療することに決めた」
「……それは」
止めなければならないと分かっているのに、体は動いてくれない。まるで魅入られたかのように老婆の瞳から目を逸らせない。
彼女は皺だらけの手をそっとキノミの頬に当てた。
「あなたはとても優しい子だな。今はもういないあの子を思い出すよ。どうか正しくあってくれ。治癒師として、レクシスをそばで支えるんだ。──分かったね?」
そして、老婆は隣に置いてある鞄を手渡した。
「あなたたちが研究していた薬や分析にかけた薬草を炎から退避させたものだ。必要なもの、必要な分だけここにある」
開いてみる。
確かに、一通り揃っていた。新しい薬瓶に詰め替えられて、更にラベルには効能まで書かれている。レクシスやキノミでさえ知らなかった知識。
「どうして……帝国を治癒……街を滅ぼすのなら、どうしてあたしに……」
呟いたのが耳に入ったのだろう。
「私には分からんよ。確かにこの街は帝国の要所。潰した方が良い……だが、久しくレクシスの顔も見れたことだ、良しとしよう。人の心というものは、ときに医師である私でさえ分からないところがあるのだ」
老婆はキノミの瞳を見た。その奥にあるものを確かめて、微笑みを浮かべた。レクシスとまるで同じような笑みを。
「あなたは、何のために治癒師になった?」
「……あたしは──」
迷ったのは、一瞬だった。
「っ、!」
キノミは背を向けると一目散に領主の館へと駆けていく。
その背をどこか寂しげな表情で老婆は見守っていた
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