25.『意味』

 走る、走る。

 階段を駆け下りて、何度も足を取られながらも走り続ける。裏通りを抜けて、市場を避けて、何度も、何度も涙をこぼしそうになりながらもただ走り続けた。


 そうして、レクシスは自分がどこにいるか分からないほど走ってから、やっと止まった。


 遠くには領主の屋敷が見える。

 小さな川に架かった石橋の上にレクシスはいた。古びた看板を背にして、座り込んだ。腐食し、埃まみれの地べたに座り込んで頭を両手で抱える。


 頭が割れるように痛い。昨日の晩から痛みが強くなっていた。

 噛み締めた歯の隙間から、うめき声が漏れた。


 分かっている。分かっているとも。それが理解できないはずがないだろう。

 最初から分かっていた。

 自分がどうして治癒師を遠ざけるのか。自分がなぜキノミに対して剣呑な態度を取るのか。全部分かっていながら、そこから目を背けた。


 今の自分は、ただの臆病者だ。

 天才少年として、もてはやされた時代などとうに過ぎ去った。今の自分は過去の技術に必死にすがりつく醜い存在に過ぎない。


 あのとき。

 レクシスが渾身の想いを込めて作った薬が、侮っていた治癒師に再現されたとき。

 確かに、レクシスは自分の心が折れる音を聞いた。

 そして、気づいていながらも目を背けていた自分の感情を強引に暴かれて。


「……っ」


 腹の底から湧き上がった自分への嫌悪感に、猛烈な吐き気に苛まれる。

 レクシスは思いっきり胃の中身を吐き出した。水面に吐瀉物が吸い込まれていく。

 咳き込んで、むせて、喉から喘鳴が漏れる。


『君を、救ってやる』


 ぞっとした。凍える吹雪が身を叩く。

 声が聞こえる。幼い自分の声だ。そのうぬぼれの先は、見たくない。

 堪えていた涙が、あの日からとうに枯れ果てていた涙が今更のように溢れ出す。


 ガリテア。ガリテア。どこにいるんだ、ガリテア。


 もう一度会いたい。

 もう一度、君に会いたいんだ。

 君がいなくては、何も──


「……レクシスさん、ここにいたんですね」


 背後から声が聞こえた。

 足音とともに、こちらに近づいてくる。一人にしてくれと頼んだのに、築いた壁を壊して、無遠慮に進んでくる。


「帰りましょう」


「……やめろ、こっちに来るな」


「あたしたちの研究室に」


「やめてくれッ!」


 頭を抱えたまま首を振る。……足音が止まった。


「もう、いいだろう? 君だけで作ればいいんだ。君は、僕が作り上げた最高傑作の抗病薬でさえ再現してみせた……なら、もう僕はいらないだろ」


「……レクシスさん」


 言葉が堰を切ったようにあふれだす。


「治癒師を拒んだことだって、そうだ。神に頼る治癒師に未来はないとかほざいて、目を背けていた。君のような、患者に真摯に向き合う治癒師がいることを、認めたくなかった……医術が、治癒術に劣るなんて認めなくなかったんだ……」


 治癒術が医術を吸収してしまえば、もはやレクシスの立場は奪われる。アルミオシオンの人々の努力が塵に消える。あの人たちの苦労が、自分の知識が全て……自分たちを虐げてきた者の手に渡る。そう信じてきた。

 なんて愚かしい独占欲。人を癒やすすべを担う医者とは思えない、子供のわがままだ。


 ……そうだ。

 もう、そんなわがままは、おしまいだ。


「……全部、僕の手記に書いてある。予防薬の作り方も、マティアスが掛かっている病の正体も」


 だから、絞り出すようにして呟いた。


「僕を放っといてくれ……今まで、すまなかった……本当に、ごめんなさい……」


 しばらくの間、小川のせせらぎの音が耳を塞いだ。

 振り返るのが怖い。理不尽を押し付けられた少女は、今頃どのような顔をしてレクシスを睨んでいるのだろうか。

 やがて、足音がまた動き出した。遠ざかるのではなく、近づいて。


 そして。

 とんっ、と軽い衝撃が背にぶつかった。

 ほのかな熱が伝わってくる。


 彼女は、震えていた。


「聞きたい言葉は、それじゃないです」


「……ぇ」


 キノミは、レクシスの背中に額をつけて囁いた。


「あたしは、あなたに……ありがとう、って言いたかった。あの襲撃の時、あたしは震えることしかできなかった。自分の命を助けてもらいながらも治癒師として、傷ついているあなたに何もすることができなかった。だから、ありがとうって言いたかったんです。それを聞いて、いつもの調子で返して欲しかった……治癒師を認めずとも、互いに協力してマティアスくんを治せればそれでよかった」


 唇が動く感触が直に伝わってくる。


「自分はいらない、なんて言わないでください。そうやって、あなたの責務から逃げないでください」


 その言葉の響きに込められた感情が、レクシスを打った。

 ゆっくりと、葉の露が滑り落ちるよりもさらに遅い動きでキノミの顔を見る。

 彼女は、頬を膨らませていた。顔を真っ赤に染めて今にも泣き出しそうな表情をしていた。


 一体なぜ──


「あたしに対しての言動は、どうだっていいんです。教会の中でも、治癒師同士でも、あたしは若輩でしたからそういうこともありました。だから、どうだっていいんです」


「……君は」


「ガリテアさんのことだって、正直どうだっていいです。あたしに重ねたとは言っても、あたしはあたしですから。ただ、レクシスさんにとって大切な方だと分かりました。無理に聞き出そうとは思いません」


 少女は矢継ぎ早にレクシスに意思を伝える。


「ただ」


 そこでキノミは、きっ、とレクシスを睨みつけた。まるで悪意のこもっていない、純粋無垢な怒りの眼差しだった。


「それを理由にして、逃げ出すことは許しません。治癒師として──いいえ、人を癒やすすべを持つ者として絶対に許しませんっ‼ あの村で、死後の安息を願ったあたしよりも、ずっと強く命を救おうとする意志を持つあなたが……それだけはしちゃだめなんです……!」


 蹲ったレクシスは、目線より高い位置にあるキノミの視線を受け止めた。


「薬を作ってください。命を救ってください。ちゃんと向き合って、頑張ってくださいっ‼ ──あの時とは、状況が違います。マティアスくんは、口には出せないけれど未来を望んでいる。外の話をせがんだのが、その証拠です」


 頭を下げられた。


 ……何だこれは。僕は、どうすれば──

 掠れた声がこぼれる。


「……命の意味とは、なんだ」


「人は幸せになるために、生きていきます」


 打てば響くその答え。

 レクシスは、歯を食いしばって、絞り出す。


「ならば……──苦しみながら生きる意味は、なんだ!」


 レクシスには答えられなかった質問に、キノミは。


「──人生に機会を与えるために、人は生きています」


 目の前の少女は答える。


「治癒術は、苦しみから人を癒やすすべです。……『我ら治癒師。人に寄り添い、苦痛を除き、魂を清める』。タリュム師に聞かれたら怒られちゃうかもしれませんね。あたしにとって、我らが主や死後の楽園は、そこまで重要じゃないんです……そう、あなたに気づかされました。あたしはただ、人に寄り添ってあげたかった。そのために楽園を信じていたのかもしれません」


 キノミの瞳に、レクシスの顔が反射している。瞳に映った自分は、まるで泣き出す寸前の子供で。


「楽園は、到達点です。楽園に至る人生に意味があるんです。今は苦しくとも後に苦しいとは限らない。今苦しいからって、助かる人の治療を諦めてしまえば……いつかの未来、幸せになる機会を奪ってしまう。それは、とても悲しいことです。我らが主もきっと望まないでしょう」


「……そうか。君は、そう……考えているのか」


「ですから、人は今を、明日を、その先の未来をも精一杯生き抜くべきです。いつか幸せになれる日が来るように、祈りながら……」


 穏やかな表情で話すキノミを眺めながら、レクシスは考える。


 ああ、そうか。

 やはりガリテアではない。

 キノミは、キノミであり、他の誰でもないのだ。

 それは、ガリテアの考え方とは違う。


 キノミだけのものだ。


「……ありがとう。煩わしい真似をさせた」


 目の前がすっと晴れたような気分だった。

 失った悲しみはまだ心の奥で疼いているが、もう彼女の前では表に出てこないだろう。

こちらを振り向いて心配そうな顔を見せる。


「あの、では……薬を作るのは……」


「もちろん……協力する。『責務を投げ出さないで』とか、どこかのちびっ子に説教されたからね。──ずしんと、ここに響いた」


 思考の根源は脳にあるが、果たして、今の言葉が響いたと感じるここには何が宿っているのだろうか。

 

 キノミは口をぽかんと開いて固まった。

 やがてわちゃわちゃと慌て出す。


 「あ、ああ……す、すいませんっ! あたし、偉そうになんてことを……!」

 

「気にしなくていい。むしろ、あの場面」


マティアスの診察だ。


「明らかに君の方が誠実な対応をしていた。自分の未熟さを知るいい機会になったよ。君はもっと自分を誇っていいと思う」


「は、はいっ」


 今度は耳まで真っ赤に染まった。やはり彼女は可愛らしい反応を見せてくれる。

「そうだ」


 両手を広げる。


「友好の証にハグでもしようか」


「な、なんでそうなるんですかっ!?」


「北部の世俗的な風習なんだ」


 片目を閉じる。


「もちろん、パトリツェアとも毎回しているよ」


「ええっ⁉」


 これは嘘。パトリツェアにハグを求めれば一週間はまともに口をきいてもらえなくなる。


「マティアスにもしただろう?」


「あ、あれはその──」


 キノミの肩が震える。


「まさか僕には出来ない? どうして?」


 微笑みを作る。それを見たキノミの顔から蒸気が出るほど真っ赤に染まった。


「じ、じゃあ、ちょっとだけ……」


 恐る恐るといった様子で背中に腕を回してきた。それをぎゅうと抱きしめてやる。「ひゃぁあっ」と素っ頓狂な悲鳴が上がってジタバタともがいている。ああ、楽しいな。


「は、離れてくださいっ!」


「おっと」


 キノミは小走りに距離を取ってぜえぜえと息を整えている。


「君は温かいね。心が繋がった気がした」


「……レクシスさん。パトリツィアさんから性格が悪いと良く言われませんか?」


「まさか。パトリツェアとはとっくに仲良しだよ」


 大きなため息を吐かれた。

 レクシスたちが二人揃って研究室に戻ったときには、すでに日は高く昇っていた。

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