第三章『病の正体』
26.『病の正体』
研究室の扉を開けると、パトリツィアが立ったまま迎えてくれた。
そして、奥の暖炉で沸かした湯を持ってきてくれる。湯に口をつけると僅かな苦味と青臭さが広がった。
「ソラシダの茎です。気持ちを鎮める効果と軽い鎮静作用があるとキノミさんから聞いて淹れてみました。落ち着きましたか?」
パトリツィアはいつものように穏やかに訊ねてくれる。
キノミが横から得意げな顔を覗かせて小さな手でピースサインをしていた。
「……その、さっきは酷いことを言ってすまなかった。どうかしていたんだ。ガリテアと仲の良かった君に、僕はなんてことを……自分を殴りたいよ」
「いいのです。気にしないでください。私にも悪いところがありましたから、お互い様です。もう少し慎重に言葉を選ぶべきでした」
「やめてくれ、もっと情けなくなる」
くすぐったい気持ちになり、レクシスは手のひらを振った。
パトリツィアはじっとレクシスの瞳を覗き込むと、やがて小さく息をついて微笑んだ。
「創薬の続きをしましょうか。キノミさんも来てくれたことですし」
いつも通りの笑みに緊張がほぐれていく。
「うん。遅くなってすまない。ここから始めよう」
レクシスは自分の頬を両手のひらで張って、決意を込めた。
その横顔を見たパトリツィアは満足げに頷く。
「治癒師──いや、キノミ。まずは前提知識からだ」
「は、はいっ!」
キノミは背筋をぴしりと伸ばして、固まった。
背の高い机に腰掛ける。そして、口の端をつり上げて幼い治癒師の見習いに問うた。
「病とは、そもそも何だと思う?」
唐突な問いかけにキノミは小首をかしげて、答える。
「えっと……病ですか? 我らの主があたしたちに試練を与えたり、邪なるものが身体に憑依したりするのが病だと聞いています」
レクシスは笑みを深めた。
「なるほどなぁ。案外、教会も的外れなことを言っていないか。──医学ではね、病とは大まかに区分すると三つに分かれるんだ」
指を三本、キノミの前に伸ばす。
「一つ──僕たちの身体の機能が暴走して起こってしまう病。
二つ──『病の種』と呼ばれる生き物が身体に入り込んで起こす病。
三つ──心が病んでしまって、それと連動して身体がおかしくなってしまう病。
アルミオシオンの医学──正確には僕の専門とする病理学では、この三つの原因をもって病としている。……ただ、この問題は本当に難しいんだ。今挙げた原因の他にも夜天の星の数ほどの原因がある。それらが絡まり合って相互し、反応しあって、誰もが予想もしない結果を導き出すことがあるんだよ」
レクシスの瞳は遠くの彼方を見つめるようにすっと通った。言葉の調子に熱が灯る。
「とても、とても難しいんだ。人の身体というものは、僕たちの思うよりもずっと複雑で、僕たちが命令しなくても動くような機能が山ほどある。消化器官に、心臓の拍動、免疫機能、そして僕たちが今考えていることだって、脳みそがどんなことをしているのか想像もできないし、もちろん生きているうちに確かめようがない」
手を大きく広げる。乾燥した唇を舐めて、言葉を紡ぐ。頭が熱を帯びて、冴えている。
「──人を癒やすすべというのは、そんな先も見通せない真っ暗な闇の大海原にその身一つで漕ぎ出すことだとシミュラ先生は言っていた。そうして、大海原で手に入れた宝をもってして、人の命を救うことができるのだと」
まるで教会から村々へ派遣されてくる宣教師だと、レクシスは自分を振り返って苦笑した。それは間違いではない。今まで神に祈ることしか許されてこなかった領域に踏み込んだのが、医術であり、医者なのだ。
人を癒やすすべの新たなる地平を開いた人の業。人の技術の結晶。
それが、──アルミオシオンの医術。
「医術と治癒術の根本的な違いが何か、君に分かるかな?」
少し被りをかぶって小さな声で、
「……我らが主の有無、ですか……?」
「そうだ。医術に絶対の答えはない。治癒術とは違って、僕たちは目に見えるもの、手に触れるものしか信じない。論理と観察、そして実験。医術は科学であり、鍛冶、農作、服飾と同列のものだ。僕たちは神に祈る司祭ではない」
治癒術には、絶対の答えがある。神とか主とか呼ばれている存在のことだ。
病になるのは、神が試練を与えたから。不機嫌になったから。神と敵対する邪なるもの──悪魔らへんが呪詛をばら撒いた……そんなものばかりだ。
これでは話にならない。アルミオシオンの老医シミュラは、そう治癒師を断じた。そして、医術体系を仲間たちと共に一世代で築き上げた。
まさに、天才の所業。世界を癒す妙薬。神を否定した、神にも届く人の業だ。
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