27.『小さなものどもの世界』
「『病の種』……そんなものがあったなんて」
レクシスもシミュラから初めてその話を聞いたときは信じられなかったものだ。
「紛れもない真実だよ。確かめてみれば分かることばかりなんだ」
「『種』、ということは……それは生きているんですか? いつか芽が出て、茎が伸びて、花が開くと?」
「そうなったらホラーだろ。……森には虫に寄生する似たような生き物もいると聞くけど、あくまで例え話さ。けれど、確かに『病の種』は生きている。とても小さいけどね」
レクシスは立ち上がって、奥の部屋から頭大の器具を両手で持ってくる。
とても重い。これは特注品だ。壊したりすれば膨大な借金が押し寄せてくるだろう。
机の上に慎重に置くと、キノミに向かって手招きした。
「……これは、硝子板に、筒? 水晶?」
キノミは目の前に置かれた装置の複雑さに目を丸くする。
「見てみる? これは『顕微鏡』と言って、シミュラ先生が商会の細工師に山のような金を積んで作ってもらった器具だよ。小さなものどもの世界を覗くことができる。今は僕が管理しているんだ」
「ええ。とても繊細な装置ですのでこちらを」
パトリツィアはキノミに革手袋を渡す。
「壊せば万金の値段が商会から請求されるでしょう。それに、もはや顕微鏡の設計図は失われています。再開発にはさらにお金が──」
キノミは小さな手を両方使って話を止める。
「分かりました、分かりましたよっ⁉ そんなに脅されると視界に入れるのさえ怖くなってきます‼」
「分かればよろしいのです」
パトリツェアは変わらず笑っている。
「……うぅ、パトリツィアさんの圧が強い……」
キノミは恐る恐る顕微鏡に近づいて、筒の中を覗き込んだ。光が幾重もの水晶によって拡大され、調節されて『あるもの』を映し出す。
「なんだか、ごにょごにょしたものがたくさん見えます……ちょっとずつ動いてる?」
「それは『細やかなるもの』。『病の種』になり得るけど、基本的には違う。多くの『病の種』は顕微鏡では見えないほど小さい。……ただ、分かってくれた? 僕たちの目にしている世界がいかに狭いか。こんな命が無数に僕たちの身の回りにあるんだ。そして、それらの命は互いに助け合って、殺し合って……均衡を保っている」
「あ、あたしたちの身の回りにこんなのが……⁉」
キノミは顕微鏡からぱっと離れると、まるで目に見えないものを身体から払い除けるようにして身体を擦った。
初めて小さな世界を目にした者は、誰も彼も同じような反応をする。
思わず笑いが込み上げる。こんな反応を見るのは随分と久しぶりだ。
「そうだ。こういった生き物が、僕たちの身体に……例えば風に乗ったり、食事に混ざっていたりして入ってくる。小さな生き物たちは、僕たちの身体を新しい住処にしようと色々なことをするんだ。もちろん、身体にとって悪いこともする。そうすると身体は生き物たちを追い出そうとする。熱が出たり、咳をして鼻水も垂れてくる。君は身体に熱を出せ、鼻水を出せと命令していないにもかかわらず。ご存知の通り、病になる。ここで説明したものは一例に過ぎないけどね」
説明を聞いたキノミは、自分の身体のあちこちを触りながら、落ち着いた声で呟いた。
「……不思議です。まるで、身体があたしのものじゃないみたい……」
まるで独り言のようだったが、実際独り言だったのだろう。
「あたしは自分の身体に、その小さな生き物が入ってきて、気づかなくても……身体そのものが勝手に熱を出したり、咳を出したりして追い出してくれる……あたしは、今までそんなこと知らなかった」
深く頷く。
「その通り。自分の身体は、本当の意味では自分のものじゃないんだ。仮に魂というものがあったならば、魂が身体を動かしていると思わされているだけかも知れない。筋肉を動かすのだって、神経の電気信号だ。その電気信号だって、脳という身体の器官から出ている……魂なんてものは、実際には肉体の観測者に過ぎないのかもしれない」
「…………それは、」
キノミが複雑な顔をしたのを見て、レクシスは軽い調子で笑った。
「ここまで聞いて分かっただろ? 結局、ツィタル正教に属する治癒術と医術は、どうあっても馴れ合わないのさ。医術を突き詰めれば、神の存在どころか僕らの存在さえ肉と電気信号による虚飾だってことになるからね。当然、日夜権力争いばっかりしている教会がそんな医術を認められるわけがない」
「……でも、レクシスさんはそれを信じているんですよね?」
目を合わせて問いかけてくる。
「少し語弊があるな。僕は、医術を信じてなんていないのさ。信じる暇があるなら、確かめる。頭蓋を開いて、腹を裂いて腸まで調べる。そして、信じるのではなく、事実として受け止める。医術は信じるものじゃない、確かめるものだ」
レクシスは指で部屋に並んでいる襲撃者たちの死体を指す。
「──かつて、僕は全てを確かめた。君が医術の道を志すならば、確かめることが先決だ。……やるかい?」
視線を追った先には銀の反射光をきらめかせるメスとハサミがある。キノミはしばらく黙った後、口を閉じて、首を振った。
「あたしは、そんなこと……できません」
「そうか。聞いて悪かったよ。忘れてくれ」
予想していたことだ。
神を信じるツィタル正教の治癒師にとって、遺体は敬い、恐れるべき対象だ。
刃を突き立てて、死後も肉体を傷つける真似は容認できないのだろう。
そこが治癒術の限界。……そして、美徳なのかもしれない。
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