28.『予防薬』

 キノミはしばらく黙っていたが、ふと何かに気がついたように顔を上げた。


「……マティアスくんの病は、その『三つ』のうちのどれか、なんですよね?」


 レクシスは固い雰囲気を纏った。まるで刃のように鋭い眼光が覗く。


「うん。マティアスの身体は、『病の種』に侵されている。──北部山岳の風土病、名を『銀糸病』。……本来、ここにあるはずのないものだ」


「……え?」


「元々、銀糸病は北部の山嶺に生息する獣に罹患する病だ。罹患した獣を食べたり、噛まれた場合も人にも罹患するし、人から人へ移る感染性も微弱ながら持ち合わせている……」


 そこでいったん言葉を止めて、


「銀糸病の『病の種』は獣にでも噛まれなければかからないはずの病なんだ。マティアスは生まれた頃より病弱だと聞いている。領主がマティアスの肌に獣の牙を届かせたとは思えない」


 銀糸病は元より獣に罹患する病だ。人間相手では飛沫や空気に漂う程度の『病の種』で発症させるほどではない。もっと日常的に多くの『病の種』に触れなければならないはずで──


「症状は……」


 キノミの言葉に深い思考から呼び戻される。


「重度の炎症による関節痛と軟骨の壊死。『病の種』が血に通った場合は、血管にも炎症が広がることがある。この病にかかった人は、膝の筋肉がまるでぴんと張った糸のように震えるんだ。死ぬことはない。赤ん坊の頃にかかればほとんどの場合、軽症で後遺症も残らない。──『北部の氏族』ならば」


「……どういうことですか?」


 キノミの肩が緊張に耐えきれず小さく跳ねた。

 レクシスの表情は遠くを見通すように無表情で、透き通っている。


「免疫、という言葉を知ってる? ──パトリツィア、駒遊びの一式を持ってきてくれ」


「それは、今必要なのですか?」


 怪訝そうに眉をひそめるパトリツィアに、レクシスは手を振った。


「遊ぶわけじゃないさ。キノミに説明がしやすくなるだけだよ」


「……分かりました」


 レクシスはパトリツィアに持ってきてもらった駒遊びの盤面を広げた。

 黒と白の駒に、格子状かつ交互に並んだ黒と白のマス。駒にはそれぞれ適切な役職が割り当てられて、互いに持ち駒を奪い合う遊びだ。


「あの、これは……?」


「駒遊びって知らない? 南部発祥って聞いてたからてっきり知っているものかと」


「もちろん知ってます! 修道院で過ごした頃はこれしか娯楽がなかったですから! あたし、結構強いんですよ?」


「ちなみに僕はクソ弱いからね。間違っても挑んでこないように」


「……えぇ」


 がっくしと首をうなだれて、キノミは露骨に声をしぼませる。


「黒と白の駒が盤上にある。この盤上を君の身体。黒い駒を『病の種』とする。白い駒は君の身体に根付く忠実な衛兵だ。駒遊びのように『病の種』を盤面から追い出してくれる」


「衛兵、ですか?」


「これを『免疫』と呼ぶ。この衛兵がいるから、僕たちは『病の種』が日々身体に侵入してきても健康でいられるんだ」


「……あたしの身体に、そんなものが……」


 素直に驚いてくれる。今までの教会の人たちとの対話とはまるで違う、『医者は悪』という色眼鏡を外した相手との対話はこれほど楽しい。

 パトリツィアが空いたコップに湯を注いでくれる。それを傾けて、レクシスは続けた。


「仮にだよ、キノミ。君がもしも『衛兵』を使って『病の種』を取り除け、と命令されたらどうする? 舞台は盤面、役職は先ほどの通り」


 キョトンとした目。


「そりゃあ、白い駒で黒い駒を奪いますけど……」


「じゃあ──」


 レクシスは立ち上がって、キノミの両目を手で覆った。


「ひゃあっ⁉ な、なにを……⁉」


「これなら、どうする?」


 じたばたしていた手足が、何かに気づいたようにぴたりと止まった。


「……分かりません。前が見えないし、黒と白の駒を動かすのだって……」


「じゃあ、これなら?」


 両目を覆っていた手を退ける。

 キノミは急に開けた視界に目をしばたかせながら盤上を見る。

 白の駒のみがそこにあった。


「えっと」


「さあ、この中に『病の種』が紛れている。見つけてくれ」


 しばらく白の駒を一つずついじっていたが、やがてレクシスを見上げて首を振った。


「無理です。全部一緒に見えます……底に赤い印が押されてるのがありますけど、関係ないですし……」


「じゃあ──『病の種』は、駒の底に赤い印が押してあるんだ。これならどうかな?」


「……何を……?」


 怪訝そうに眉を動かす。


「いいから、やってごらん」


 キノミは怪訝そうに駒を一つずつひっくり返して、底に赤い印が押されている駒を盤上から除いていく。


 やがて、白い駒は二つのまとまりに分けられた。

 ぱんっ、と両手を打ち鳴らす。


「うん。まさに、今のが『免疫の記憶』だよ」


「……えっと?」


 レクシスは盤上に置かれている駒を手に取った。もてあそびながら、ゆっくりと口を開く。


「今、君は僕に条件を与えられて、駒を分けることができた。僕たちの身体も一緒さ。身体の中にいる衛兵は、侵入してきたものが『病の種』かそうでないか見分けがつかないんだ。──ここに、病の本質が隠されていると僕は思っている」


 駒を持ち上げて、光にかざす。


「質問ばかりで悪いね。病にかかる人とかからない人の違いは何だと思う?」


「……ツィタル正教の教えでは、日頃の行いによって、主の審判が下ると……」


 そこで、キノミはレクシスを見つめて。


「身体の中の衛兵……免疫が、強いか弱いか?」


「それだと半分だ。君は、さっき『病の種』を見分けるのは無理だと言った。それはなぜ?」


「……全部一緒に見えたから……あっ、そうか!」


 ここでキノミは弾けたように頭を上げる。


「『病の種』かそうでないか、見分ける方法を教えてもらわなかったっ!」


「その通り。『病の種』は身体に入ったとき、そうでないものとで分けるのはとても難しい。身体にとって役に立つもの、そうでないものを見極める必要がある。……幼い子供は天からの授かりもの。子供はとても弱く、そして柔軟だ。子供の頃に僕たちは多くの病に一度かかって、生き延びている。──その時に免疫は身体に入ってきた『病の種』の見分け方を覚えているんだ」


 キノミの目が一瞬だけ虚ろに泳いだ。多くの情報に混乱しているのだろう。だが、これを受け入れれば見えてくるはずだ。

 キノミは賢い。それこそ、レクシスに負けぬほどに。


「分かりました! つまり、幼い頃から銀糸病にかかっている獣の肉を食べて、免疫に覚えさせているから、北部の氏族の人たちは銀糸病がそこまで怖くないんですね!」


 目を丸くする。流石にここまでとは思わなかった。


「……へぇ。正直驚いてるよ。今の説明からそこまで辿り着くなんて」


「ふふんっ、もっと褒めてくれてもいいですよ?」


 キノミは得意げに胸を張る。

 そんなキノミを眺めて、レクシスは声の調子を落として呟いた。


「だから、──最悪なんだよ。銀糸病の免疫も何も持っていないマティアスがこの病にかかることは。僅かだけど、襲撃者である彼らの血からも銀糸病の『病の種』が見つかった。北部にしかないこんな病が、どうやってこの街に持ち込まれたかが分からない。……もしかすると、大勢の死人が出るかもしれないんだ」


「…………あ」


 一瞬にして、キノミの顔から表情という表情が抜け落ちた。

 レクシスは透徹した目で、キノミを見つめる。


「だから、僕は予防薬を作っている。病にかかっても発症しない、あるいは軽症で済む薬。──そう、予防薬は免疫に『病の種』の見分け方を教える薬なんだ。……その薬を作るために、キノミの力を貸してほしい」


 深々とレクシスはキノミに頭を下げた。

 そんなレクシスをパトリツィアは心配そうな眼差しで見守っている。


「え、あ……あ、はいっ! あたしでよければ、精一杯がんばりますっ‼」


 頭を下げられたキノミは、目を白黒させながらも大きな声で言ってくれた。

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