29.『裏側の事情』
夕陽の赤が差し込んでいる。
パトリツィアは検分の手を一度止めた。そして、向こうで熱心に抜いた血液と試薬を混ぜているレクシスに顔を向ける。
「……あの説明、キノミさんに伝えていないことがありますよね? 彼女に欲している能力は薬草の知識だけではないでしょう」
「何のこと? 彼女の薬草の知識は本当に深いものだった。抽出した『病の種』を弱毒化するために彼女の知識が必要なのは事実だよ」
レクシスは目線を固定したまま上の空な返事を返す。
「予防薬は、人工的に獲得免疫を与えるもの……必然的に、その材料を作る上で人間に治験しなければなりません」
「鼠とか他の哺乳類でもいけるいける」
「動物実験のみを経た薬を人に与えるつもりですか? ……正直に答えてください。もう、治験の手はずは整えているのですか?」
黙ったままのレクシスを見つめた。
レクシスの瞳の色は、時折パトリツィアを不安にさせる。
その白い額の奥にどんな思考が渦巻いているのか、一度パトリツィアは気になったことがあった。そして、アルミオシオンにいた頃、それをシミュラに聞いてみたことがあった。
シミュラはゆっくりと微笑むと、鎮静剤を投与されて、研究室の真ん中に横たわっている被験者の頭に電極を無数に張り巡らせた兜を取り付けた。計器を操作すると機械に取り付けられた磁石が回りだし、重りで自動的にペンが紙の上を踊る。
『脳波』と脳の機能的構造について淀みなく説明していく彼女に、まだ小さかったパトリツィアは畏怖にも似た恐怖を覚えたのだ。
レクシスは、あの時のシミュラと同じような目をすることがある。
「……はぁ。君の嗅覚は相変わらずだ。そうだね、商会の伝手を使って、すでに人を集めている。何も問題はない。同意書もしっかりと取って血印ももらった。ざっと二十五人だ」
「医術の薬に、そのようなたくさんの人が……」
信じられない数だ。ツィタル正教の勢力圏でこれほどの被験者が集まるとは。
……まさか。
一瞬、思い浮かんだ考えをパトリツィアは即座に否定する。だが、予想に反してレクシスは続けた。
「協力者としてキノミの名前を出したら皆すんなりと同意してくれたよ。彼女は随分とこの街から信用を置かれているらしい」
「……では、」
しばらくの沈黙。
「キノミさんを、利用したということですか?」
「利用だなんて人聞きの悪いことは言いっこなしだよ、愛しいパトリツィア。あくまで適材適所を取引したに過ぎない。向こうの治癒師のほうが長くこの街で活動していたから信用を得ている。だから、その信用を少し借りたんだ」
「……」
信用を借りる。なんと都合のいい言葉だろうか。
「僕は治験者を集められて、教会のほうはキノミを通じて教義上行えなかった実験の記録をこの僕から聞き出すことができる。これは両陣営にとって、とても有効な取引といえるんじゃないかな」
喋りながらも、当たり前のように観察を続けるレクシス。
「……だからと言って、この方法は……あまり好ましくありません。誠実ではない」
「だからなに? 好みで人の命を天秤にかけるのが医者の仕事じゃない。治験を通して作られる予防薬は多くの命を救えるんだ」
そういう問題じゃない──という反論をすんでのところで口に出すことはなかった。
レクシスは、こういう男だ。自分が信じた道を通るためならば、何を利用しても押し通る。邪魔なものは独自の理論武装で切り捨てる。たとえその結果、人に恨まれようとも。
きっとレクシスは長生きできないだろう。
あまりにも敵は多く、本人も敵を作りに行っている節がある。ある種の自傷行為、あるいは自罰的と言えばいいのか。恐らく過去のトラウマに起因する類のもの。
ガリテア……。
「無論、治験は僕が考えうるリスクを排除し、出来る限りの安全対策を行った上で実施する。普段の生活よりもよほど健康的な食事に運動を行わせるつもりだけど」
ようやく観察と記録が一段落ついたのか、レクシスは顔を上げて大きな伸びをした。少しふらつく。
そして、レクシスはパトリツィアを真っ直ぐと見据えた。
「最悪の場合を想定してみなよ。──もっと、先を見るんだ」
瞳の奥に星空が見える。
「……なにを」
「銀糸病が虫──つまり、ダニやノミ、蚊を伝って広がっていく可能性。北部は寒いから虫の発生は抑えられているけど、これが南部に持ち込まれれば……一気に感染が爆発するだろうね」
「……かつての大流行が、起きると?」
「幸いなことに次の季節は虫や鼠の行動が阻害される冬だ。冬が終わるまでに決着をつけないといけない。早々に対処しなければ虫から鼠に病が移って取り返しのつかないことになるんだよ。時間は、想像しているよりもずっと少ないんだ」
そうしなければ、かつて帝国を滅ぼしかけた『落日』と同じだと、レクシスは言った。
「手段を選んでいる場合じゃないことが分かったかな? もしも何かあれば君が指摘してくれ。いつものように」
いつものように。
レクシスは言葉の通り、いつもパトリツェアに同意を求める。本人からしてみれば自分の行動を抑制する枷のつもりだろうが、きっとそれは胸の内を知らないから言えるのだろう。
自分は、本当に
「いいえ。貴方の言う通りです。今は、そうすべきでしょう……」
答えは未だ聞けずにいる。
「なら良かった」
笑みを浮べて、レクシスは立ち上がった。
「そろそろ夕食の時間だし、一旦街に出てみない? キノミは進捗を報告するために教会に行っているし、久しぶりの二人だけの時間じゃないか?」
「そういえば……そうですね」
このところ毎日のように研究室にキノミがやってきていた。レクシスの開発している予防薬に使う薬草について、二人で良く話し込んでいるのを見た。
寝食を研究室でとり、一日中過ごしているため久しく街に出ていなかった。
未だ予防薬に使える薬草は見つかっていない。
レクシスの額に微かに焦りが見えていることに、今更気づく。
これは、レクシスがパトリツィアの休んでほしいという願いに譲歩した結果なのだ。
「この食事が終われば、本当に最後まで研究室にこもることになるのですね」
「中々乙なもんでしょ? 大仕事の前のデートだよ、デート」
「付き合ってあげますよ」
パトリツィアは無表情で手を差し出す。
「へぇ? そっちから手を握ってほしいだなんて、わりと始めてだったり?」
「手を繋ぐ行為は精神的苦痛を軽減する効果があります」
「あまり内分泌系には詳しくないけど」
「無粋ですよ」
レクシスは肩掛け鞄を持って、外に出た。続いて出る。一週間ぶりに浴びた外の空気は薬品の匂いも何も混ざっておらず、どこまでも澄んでいた。
パトリツィアはレクシスの目を見つめた。
「行きましょうか」
「うん。……元気にならないと、いけないからな」
言葉に反してレクシスの目は、ぼんやりと揺らいでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます