4.『獣の病、獣の薬』

 狂犬病は、レクシスの知る病の中で最悪に近い病の一つだ。症状が出れば、発狂して踊るように痙攣しながら死に至る。治った試しは一つもない。文字通り、頭の中身が壊れるのだ。


「『踊り狼ファンガ』にかかった狼に噛まれたなら、俺は……もう、助からないのか……?」


 男は絶望して、呆然とレクシスを見つめる。

 レクシスは迷った。

 そして。


「僕は、薬を持っている」


 男の顔が目に見えて輝く。


「なっ……! なら、その薬を……!」


 男はレクシスに縋るように腕を伸ばす。

 レクシスは目を瞑った。


 そして、開く。──目の前には、死病から逃れようとする男の姿が見えた。

 はっきりと、口にする。


「僕が作った薬だ。──獣の血から作った薬でもある」


 瞬間、部屋の中で三者三様の疾風が起こった。


 男が伸ばしかけた手を素早く引っ込めて、できる限りレクシスから距離を取ろうとベッドから転げ落ちた音が響いた。

 パトリツィアが剣を抜いて、レクシスの首元に添えていた。

 レクシスは抵抗の意がないことを示すように両手を頭上に上げた。


 沈黙。──重い沈黙が立ち込める。


 最初に沈黙を破ったのは、レクシスの鼻を鳴らす音だった。この場にはいない誰かに向かって、軽蔑のこもった視線を虚空に投げかける。


「……なるほど。こりゃあ駄目だ」


「その薬をしまってください。私はレクシスを傷つけたくありません」


 首に添えられた冷たい刃の感触にレクシスはパトリツィアに言葉を投げかける。


「ワインバーグ帝国の監視官殿は仕事がお早いことで。けれど、早計じゃないか? この薬は命を救うものなんだ」


 レクシスの言葉に、パトリツェアは動じない。


「その薬を受け取る意思があるように見えましたか? ツィタル正教は魂の穢れを嫌います。そして、ここは南部です。ほとんどの人々はツィタル正教の敬虔な信徒でしょう。相手が望まない薬を渡す時──私は監視官として貴方に刃を振るう義務があります」


 一筋の刃のような彼女を見て、レクシスはため息を吐き出す。

 ふと、目線を男に向ける。真っ青な顔色で、震えるように縮こまる男の姿があった。レクシスを怒声と共に牢にぶち込んだ時とは正反対の姿だった。


「この薬を打てば、あんたは助かるかもしれない」


「やめろ……」


 男の声はまるで悲鳴だ。


「これは獣の体内にある『病の種』から精製した薬だ。北部の一部地域だと標準的に出回ってる狂犬病の『予防薬』で──」


「そんなことはどうでもいい!」


 男の叫び声が木霊した。


「っ、」


 レクシスは圧されたように、無意識に半歩下がる。


「獣の血で出来た薬なんて欲しくない! 帰ってくれ……傷口を見てくれたことは感謝するから……本当に帰ってくれっ!」


「な」


 怒りが沸騰するように湧き出し、ちろりと心を舐めた。


「……おい」


 一歩、前に出る。


「あんたの身体はあんた一人のものじゃないんだぞ! あんたの嫁さんも助かってほしいと願っている! それを台無しにするつもりなのか⁉」


「ああ、天に座す我らが主よ……お許しよ……お許しください……!」


 震える肩を抱いて一心不乱に祈り始めた男に、レクシスは愕然とする。


「これだからツィタル正教は……ッ!」


「説得は不可能です」


「っ、それでも僕は」


「レクシス」


 パトリツィアが首を振っていた。

 なんて馬鹿なことを。これでは無駄骨じゃないか。


「……くそっ」


 まるで様子の違う男の姿に、レクシスは舌打ちを一つ。綺麗に拭いたナイフを鞄に入れて立ち上がる。そして、腰に備え付けた鞄から粉末の入った小瓶を男に投げ渡した。

 顔を真っ青にした男に向けて、淡々と告げる。


「獣とは関係ない。炎症と熱を抑える薬草を煎じて乾燥させたもの──『抗病薬』だ。水に溶かして飲めば一時の苦しみは忘れられる。……安静にして少しでもいいから何かを食べるんだ。身体に力をつけさせろ」


「行きましょう」


 パトリツィアに連れられて、家から出る。


 ──諦めるのか?

 いいや、そんなつもりは毛頭ない。説得して見せる。今日は引き下がってやるだけだ。命の危機に瀕した人間は脆いものだ。すぐに心を入れ替えるだろう。

 ツィタル正教の教義? そんなもの知ったことか。


 今に見ていろ、クソ野郎。必ずお前を救ってやる。


「……レクシス?」


「すぐに行くよ」


パトリツェアの肩を叩いて、レクシスは外に出た。

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