第一章『最後の医者』

2.『牢獄の中』

 目が覚めると、そこはじめじめとした石畳の上だった。

 身体の下には粗末に編まれた寝床がある。レクシスは視線を上げる。鉄格子とその向こうから仄かな灯りを届ける松明が目に入った。


「はぁ……だる……」


 ごろりと寝転がって、思案を巡らせる。

 この国──ワインバーグ帝国には大まかに区切って北部と南部に分かれている。

 レクシスは北部の遥か果てから南部を目指して南下していた最中だった。丁度昨日、無事に南部に入ることができたのだが。


「まさか入って早々に牢屋にぶち込まれるだなんて、南部の人間は本当に心が狭いったらありゃしない……」


 ため息をつく。

 腕に縛りつけられた鎖をじゃらじゃらと鳴らした。


 「ふむ」


 どうせならと鉄格子に思いっきり叩きつける。

 鎖は鉄製だ。こんな程度では外れるわけもない。が、鼓膜をつんざくような音は牢獄中に反響している。


「おーい、聞こえますかー? お水、欲しいんですけどー?」


 しばらく鳴らし続けていると怒り心頭といった衛兵がやってきた。


「その音を止めろ! 殺されたいのか、貴様!」


 目を見開いて何とも恐ろしい形相をしている。


「死ぬほど喉が渇いたんです。お水をいただけますか?」


「勝手に死ね! この背信者が!」


 瞬間、右頬に真っ赤な熱を感じた。衝撃が頬を骨を突き抜ける。たらりと鼻血が垂れた。

 衛兵は振り抜いた拳をほどくとこちらを一瞥することなく去っていく。


「いってぇ……」


 頬を擦る。

 顔の骨は幸いなことに折れてはいないようだが、数日は腫れるだろう。


「無様ですね、レクシス」


 目を上げる。


「やぁ、君は今日も綺麗だ。監視官殿」


「減らず口を……」


 鉄格子の向こうに松明を掲げたパトリツィアが立っていた。どうやら衛兵の背後からつけてきたらしい。取り敢えず作戦成功だとレクシスはほくそ笑む。

 パトリツィアは鼻血を垂らして頬を腫らしている姿に、長い息を吐き出した。


「で? 何か申し開きは?」


 パトリツェアはまるで子を叱る親のような振る舞いをする。


「健全な男子には当然と言っても良いほどに、身体の中に欲望の獣を飼っているわけでして。昨日は少々手綱を手放してしまったようだ」


「聞きましたよ。また女漁りをしていたと。私たちを受け入れてくれた親切な村でしたのに……いい加減にしてください」


 レクシスはパタパタと手を振った。


「傷つくなぁ。そりゃあ三人同時はやり過ぎだと思うけど、そのうちの一人がまさか既婚者だなんて知らなかった。せっかく気持ち良く寝ていた最中だってのに、散々だったよ」


 パトリツィアはこめかみを押さえて絞り出すように言う。


「相変わらず女癖が最悪ですね……ツィタル正教は不貞を許しません。貴方、このまま裁かれると局部を切り落とされますよ」


 南部はツィタル正教の勢力圏だ。人倫に背く残忍な罰でも容赦なく執行されるだろう。


「そりゃあ勘弁願いたい。まだまだ僕の剣は場数を踏みたがっているもので」


「一旦マジでどうにかしてしまったほうがいいのでは……?」


 パトリツィアが顔をうつむかせてぶつぶつと呟いている。


「それで君がここにいるってことは、牢屋から出してくれるって認識で良いのかな?」


「誠に不本意ですが、その通りです」


 鍵を取り出し、牢を開ける姿をじっと見てレクシスは考える。


「そういえば、昨日一緒に寝たソフィアナからなんか言われたなぁ。それで色々準備したのに、牢屋入りとか……」


 そこで一度言葉を止めて、


「そんなに急いでいるのを見ると、村人の誰かが病で死にかけてるとかか?」


「病ではありません。……獣に噛まれたとのことで、熱を出しています」


 レクシスの目が鋭さを増した。


「……噛まれてからどれほどだ?」


「三日です」


 舌打ちが牢獄に響いた。

 それと同時に牢屋の鉄格子が開く。鎖も外してくれる。レクシスは旅荷物を差し出すパトリツィアからなめした皮で出来た上等な肩掛け鞄だけを受け取った。


「獣に噛まれた村人は?」


「村中央にある井戸から北通り、三扉向こうです」


「直ぐに向かう。パトリツィア、君は混ぜ物が少ない酒を貰ってこい。湯水を沸かせと村人に、なければそのままの水でもいい」


 レクシスの動きに無駄は一切ない。


「分かりました。頼みます」


 打てば響くように応えたパトリツィアは即座に走り出す。

 レクシスは牢獄から飛び出すと、急いで教えてもらった場所に向かった。

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