3.『処置』

 扉を叩くように開けると、屋内からは濃密な香を焚いた煙が漂ってくる。

死にゆく者の安息を願い、香を焚くというのはツィタル正教では一般的な風習だ。

 レクシスはそんな文化やら伝統やらに興味はない。勝手にしろと思う。


「ふん」


 レクシスは部屋を横断して窓を開け放っていた。色のついた煙は窓に吸い込まれるように消えていく。晴れた室内では、ベッドに横たわる男が苦しげな表情で唸っていた。

 目を開けて焦点の合わない目でレクシスの姿を捉えると。


「……貴様は、」


「はいはい、レクシス・グラマンですよ。ちょーっと失礼」


 言葉を重ねる。


「何を」


「あれ? あんた……もしかして、僕を牢屋にぶち込んだ人?」


 胡散臭そうに突如として家に入ってきたレクシスを見る。顔が驚愕と怒りに染まった。


「なんで、こんなところに……!」


「いやあ、本当に苦労した。牢屋に入れられてからキツい鎖で腕を縛られるわ、栄養価の低い麦粥しか食えないわで」


「当たり前だっ! 俺の女を寝取るなんて許さねぇ! 今すぐ八つ裂きに……!」


起き上がりかけた男の胸を指で突く。ぐらりと傾いてベッドに沈み込んだ。


「未遂だよ。その前にソフィアナが色々と話してくれたんだ。今思えばお前のことだったんだな。詳しく聞く前にお前が乱入してきて、しこたま殴られるし……ほら、傷が広がるぞ、大人しくしろ」


 身体の大きな大人がレクシスのような子供に倒されるのは傍目からは冗談のように映るだろう。男は顔を痛みに歪めるとぴくりと右脚を痙攣させた。そして悔しげに吐き捨てる。


「……おい、何をしに来た。俺は死ぬんだ。教会の治癒師が焚いてくれた清めの香に包まれてな……俺は楽園に行って幸せになるんだ」


「ふーん。じゃあ、ソフィアナは貰ってく。可愛がってあげるから安心してくれ」


「貴様……ッ! 俺のソフィを気安く呼ぶな!」


 飛んでくる怒号にレクシスはしかし、にやりと笑った。


「嫌か? じゃあ生きないと」


 レクシスは男が着ているズボンを肩掛け鞄から取り出した大きな鉄ハサミで切り始める。


「おい、俺の服に何をして」


「命と服、どっちが大切なのさ?」


 そうして傷口を覆っていた布地を全て取り除くと、そこには赤色と紫色が混在した長細く裂けた跡があった。真っ赤に腫れており、足首が震えるように痙攣している。

破傷風の初期症状だ。このまま処置をしなければ足が腐り落ちるだろう。


「こりゃあ酷い。中の方まで膿が溜まって、筋肉を押し上げているな。それに消毒も不十分、と……外科はあんまり良い思い出がないんだけど、しょうがないか」


 ぽつりと呟く。


「……何をしている」


 男の視線を真っ直ぐ見つめ返す。直前までの軽薄な様子とは違って、真剣そのものの表情に男はたじろいだ様子だ。


「何を──」


「あんたはこのままだと確実に死ぬ。教会の連中は、香に包まれて安らかに逝けるように整えてくれたようだけど、僕はその逆を示そうかな」


 レクシスは男の頬に手を当てる。痩せこけて、無精髭の浮かんだざらざらとした頬だった。

 それを掴んで、強引に持ち上げる。自分の視線と同じ高さに持ち上げる。


「僕があんたの命を救う。安らかな眠りとは程遠い苦痛が続く。後遺症も残る。──だけど、また嫁さんをその腕で抱けるようになる」


「なっ……⁉」


「悪くない。そうだろ?」


 男の目が、脳内に浮かぶ様々な思考の過程を示すように揺れる。


「遅れました!」


 部屋に飛び込んできたのはパトリツェア。片手に酒瓶を、抱きかかえるようにして湯気が立ち昇る桶を持っている。


「ナイスタイミングだ、僕の可愛いパトリツィア!」


「ツッコミませんから。今はそんなことよりも目の前の事に集中してください」


 にこりともしない。


「よぉし。この人の考えも決まったようだし、始めるとしよう」


「ちょっと待て、まだ俺は」


 男はレクシスの手の届かないところに逃げようとベッドの上で後退りする。しかし残念、部屋の空間は有限だ。すぐに壁にぶつかった。


「覚悟を決めろよ。嫁さんを悲しませる気か?」


「…………」


 鞄から黒革の手袋と銀色の小型ナイフ──メスを取り出す。手袋を嵌めた手を酒で洗いながらメスも同様に洗っていく。そして、余った酒を男の傷口に振りかけた。


「ッ……!」


 苦悶に歪む。


「しみる? そりゃあ良かった。まだ神経は生きているな。これがぶっ壊れてるとな、この先苦労する人も多いんだ。歯を砕きたくなかったら枕でも噛んで天井の染みでも数えてろ」


 そしてメスを掲げたレクシスは男の患部を目の前にして、傷口にメスを滑らせた。

 中途半端に癒着していた肉がほどかれて黒ずんだ血が溢れ出す。

 それを丁寧にすくいながら、奥へ奥へ、そして圧迫。


「ぐぅゔ……!」


「我慢しろよー」


 どろどろとした黄色い膿と黒ずんだ血が流れ出して足首を伝って滴り落ちていく。

 絞り終わった後、酒を使っての消毒に圧迫による止血、傷跡を縫い込む縫合──その全てをものの数分で終わらせる。


 レクシスの圧倒的な手際にパトリツィアは安堵したような笑みを浮かべた。新しい包帯を巻いて、軽い施術が終わった後には男の傷跡は見違えるほど綺麗なものになっていた。


「レクシス、これで……」


「まだ終わってない」


 パトリツィアを手で抑え、男に向き直った。


「あんたは獣に襲われたんだろ。どんな獣に襲われた?」


 胡乱な眼差しがレクシスに向けられる。


「……狼だ」


「へぇ? 狼って実はわりと臆病なんだ。あんたは、ここの住人なんだから狼の縄張りぐらい知っていたんだろ? ならどうして狼に襲われる?」


「こっちから手を出したって思ってんのか? そんなわけないだろ、馬鹿にするんじゃねぇ!」


 男は激昂して顔に詰め寄ってきた。

 均衡の取れていない視線、そして痛みに痙攣する足首。


「……?」


 パトリツィアは見た。レクシスの首筋にびっしりと汗が浮かんでいる。


「そうだ、あんたは何も間違っちゃいない。狼の問題だ。狼が狂っていたから、あんたを噛んだんだ」


 あくまでレクシスは冷静だ。


「……まさか、『踊り狼ファンガ』か?」


 ぞっとしたような響きが落ちた。

 しばらくの沈黙。やがてレクシスは口を開いた。


「僕のところだと、『狂犬病』って呼ばれてる病だよ。そっちだと……水やら光やらを怖がって踊り狂うように死んでいくから、『踊り狼ファンガ』って名前がついたのかな」

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