18.『過ち』

 ツィタル正教の楽園伝説。善い行いをして、魂を汚さなければ死後は楽園に導かれる。

 そこで永遠に幸せに暮らすのだと。


「……父さんに、もう会えないのは……残念だけど……あっちには、母さんがいるんだ……身体も痛くなくて、温かくて……夢みたいな楽園に、ぼくは……」


「止めろ、それ以上は言うな!」


 レクシスの急な怒鳴り声に夢見心地で呟いていたマティアスはびくりと身体を跳ね上がらせて、怯えたような目でこちらを見た。レクシスがつかつかと歩み寄り、がしりと両肩を掴む。まるで力を込めれば今にも壊れてしまいそうな粘土細工のように脆い身体。


 馬鹿げている。そんな理由で治療をあきらめて命を投げ出すだと?


「そんなことは冗談でも言うんじゃない。生きるんだ。君のお父さんも、亡くなったお母さんも君が生きることを望んでいるはずだ……」


「生きることは辛いのに、なんで生きなくちゃいけないの?」


 またか。

 死のふちにある患者が訊ねる質問、代表例がマティアスの言葉だ。


 ──苦しみながら生きる意味はなんなのか?


 レクシスは、この質問が嫌いだった。

 医者のあり方を否定するような言葉だからであり、なにより──


「……君の病は治せるかもしれない……いいや、違う。僕が必ず治してやる。君を楽園になんて行かせたりしない。この世界に病で死ななければいけない人なんていないんだ」


「じゃあなんで⁉」


 マティアスはレクシスの手を振り払って、頭を両手で抱えて叫んだ。

 喘鳴混じりの悲痛な叫び。


「なんで母さんは死んだの⁉ 母さんは、死んじゃう前に神様に呼ばれたから楽園に行くって言ってたよ⁉ なんでこんなに苦しいのに生きなきゃいけないの⁉ 人はみんな楽園に行くために──死ぬために生きているんでしょ⁉ 楽園に行ったんでしょ、母さんは‼」


 涙を散らして、マティアスは吠えた。


「っ、」


 言葉が詰まる。


 ──答えをまだ用意できていない自分に、どうしようもなく腹が立つからだ。


「……なぜ直ぐに自分の命を諦められるんだ。生きてこその人生だろ? 生きてみせろよ、生きられるなら、まだ可能性があるなら、生きろよッ!」


「なんで、ぼくは生きなきゃいけないの⁉ 生きる意味って何? 楽園は、もう、すぐそこなのにっ‼」


 ──!

 レクシスの中で、何かがぷつりと切れた。

 頭の中で幼い声が木霊する。


『君を、救ってやる』


 そう言って彼女の細い手を取ったあの雪の日。そうして彼女は二度と──。

 

「────────ッ、」


 ──止めろ!

 やめろ。その先には何もないだろう。

 落ち着け、冷静になれ。


 目の前を見据えろ。過去の幻影に縛られるな。

 囚われるな。


「楽園楽園、楽園ばかり……しかも神様だと?」


 今はこのふざけた考えから正すべきだ。きっとそうだ。医者を、医術を拒む原因を、正すべきだ。

 そんなに言うのならば教えてやる。


──」


「待って! 何を言う気ですか、レクシス‼」


 鋭い制止が飛ぶ。


 黙れ。自分は今──!


 瞬間。

 勢い良く扉が開けられて、部屋に溜まっていた淀んだ空気が一掃された。


「失礼しまーす!」


 新しい空気と共に明るい声が入ってくる。

 呆然とずかずか入り込んできた者を見つめる。

 白いローブを身に着けた治癒師見習い──キノミ。彼女は脇に何冊も本を抱えていた。


「こんにちは、マティ! 今日も来ましたよ! ……あれ、パトリツィアさんに……レクシスさん?」


「キノミさん?」


 寝台の横に備え付けられた背の低い机に、脇に抱えていた本をどさりと置いた。


「……あれ、ご本のお姉さん、来てくれたの……?」


「うん、そうですけど……二人と話があるならまた別の機会にでも」


「違う! ここにいて!」


「……? ええ、わかりました……?」


 マティアスの顔が一瞬にして明るくなる。

 その様子を見たキノミは胡乱げな表情で、こちらを軽く睨めつけた。


「あの、彼に何か用ですか?」


 パトリツィアはくいくい、とレクシスの袖を引っ張る。首を左右に振っていた。


 理解する。

 この場で、キノミに言えることは何もない。

 正式にマティアスを担当しているのは、治癒師である彼女とその師匠なのだから。

 レクシスは胸に溜めた空気を少しずつ吐き出した。徐々に冷静さが戻ってくる。


 自分は、今、何をしようとしていたんだ?


「いいや、何でもない。様子が心配になって見ていただけさ。すぐにこの場から消えるよ」


「……これで失礼します、マティアスさん。キノミさん」


 背を向けて、手を振りながら足を進める。パトリツィアがぴたりと後をついてくる。


 手がかりは手に入れたのだ。これを元に研究室で薬を作れば、マティアスは助かるだろう。

 だから、何も問題はないのだ。

 廊下に出てから、階段を降りようとしたその時だった。


「──もし。レクシスさん」


 キノミの声が、足を縛った。


「診察していたんですよね。医者も治癒師も、元は同じですから……似たようなことも、やります」


 振り返ると、廊下に出たキノミがこちらを不思議な色の光を宿した瞳で見つめていた。


「病の手がかりは、見つかりましたか?」


 その言葉に、無意識に詰めていた息を吐き出した。


「……見つかったよ。そりゃあ……もう、たっぷりとな」


 うまく笑えていただろうか。


「それは良かったです。……でも、よければあたしの診察に付き合ってもらえませんか?」


 予想外の言葉に、レクシスの思考は固まった。


「それは、またどうして」


「レクシスさん、あなたに治癒師を見てもらいたいんです」


「……無駄だ。医術と治癒術が相容れることはない」


 歴史の示す事実だった。人の業を根底に据える医術と、神を根底に据える治癒術はまるで水と油のように、互いに反目し合ってきた。医者と治癒師の長い、長い──対立の歴史。


「それでも! 元は同じ人を癒やすすべじゃないですか! ただ、見てくれるだけでいいんです。参考になる部分があるかもしれない……もし、なかったとしても、きっと、何か残るはずです!」


 キノミの必死な言葉は、胸をすり抜けるだけだ。ただ、その瞳に浮かぶ色はレクシスの記憶にあった。


 かつて、隣にあった色。

 もう、喪って、二度と戻ってこない色。光。

 なんて腹立たしくて、憎らしい。

 それでいて──


「分かった分かった、そう大きな声を出すなよ。ここは廊下だぞ? 非常識にもほどがある」


 ……ああ、くそっ。


「見るだけだから、期待はするなよ」


「っ、では、」


「これから約束があるんだ。長い時間は付き合えない」


 ジェラルドの仏頂面が目に浮かぶ。


「わかっています!」


 キノミは廊下を駆けていく。

 ため息をつきつつもその背中を追う。

 扉の前で、キノミは立ち止まった。


「……あの」


「なんだ」


 まだ何かあるのか?


「レクシスさんは、彼の名前を知っていますか?」


 唐突な質問。


「当たり前だ。診察はまず名前を訊ねるところから始まるものだからね。……名前はマティアス。家名は領主のものと同じだ」


「じゃあ」


 キノミは顔を見せずに、呟いた。


「彼の前で、一度として彼に向かって名前を呼んだことはありますか?」


 ──……。


「診察は、互いを信頼することから始まります。名前を訊ねるのは、その一環に過ぎません。あたしの診察に付き添うなら、マティアス、あるいはマティと呼んであげてください」


「……それは」


 なにが、言いたいんだ。


「名前を呼んでくれない人に、信頼を向けられるはずがありませんから」

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