35.『反故の結実』
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
レクシスは身を震わせながら、目を覚ました。
まだ日は登っていない。夜のうちに雨が降り始めたのか、雨音が響いている。
「……けほっ」
喉が異様に乾いている。
風邪を引いた夜、不意に目覚めたときと似ていた。服は下着も含めて汗で水を被ったように濡れている。頭がぼんやりとしている。熱があるようだった。
自分の身体を外から俯瞰しているような気がする。レクシスは、ふらつきながら肩掛け鞄から体温計を取り出して、耳に入れた。
その結果を見て、舌打ちする。
「……医者が病に罹ってどうするってんだ」
自己診断を始める。膝の曲げ伸ばし、関節の可動域を調べる。声が出るかどうかも調べる。喉に唾液を送り込み、痛みを調べる。
やがて、得られた結果にレクシスは椅子に崩れ落ちた。
「エンィルエンザ……か」
どうやら町で過ごすうちに自分も罹ってしまったらしい。
思いっきり笑ってやりたくなったが、残念ながら喉の痛みと頭の痛みで笑う余裕はない。
ふらりと立ち上がる。
マティアスは無事だろうか。
ベッドに目を向けるとマティアスは規則正しい寝息を立てている。
安堵の息を吐いて、レクシスはマティアスの服を脱がせて、身体を拭ってやった。
昨晩の痙攣で、身体のあちこちに内出血による痣ができている。無理に身体を曲げたせいだ。骨にひびが入っているかもしれない。打ち込んだ筋弛緩剤が効いているのか、だらりと身体を投げ出したままゆっくりと胸が上下していた。
黙々と拭って着替えさせる作業を続けていく。
換えの服は眠っている間に、ライアスが置いてくれたようだった。
それを一つ一つ身につけさせていく……そこで、レクシスは気になるものを見つけた。
「……あの布地」
カルデラン商会がこの街で卸したという小麦色の生地。とても安い値段で流通しているため、街のほとんどの人々はこの布地でできた服を着ている。
「……?」
小麦色の繊維を指で擦ってみた。
これと似た布地を、レクシスも昔よく着ていた。だから覚えている。
「毛糸……動物性の繊維……」
疑問が湧き出る。
南部では動物から取れるものは、あまり好まれないのだ。ツィタル正教の宗教上の問題もあるが、何より南部の温暖な気候が、動物性の布地を拒む。
南部で一般的に流通しているのは、麻や木綿といった植物性の繊維。
ここまで大量に動物性の繊維を仕入れた場所といえば……。
「カルデラン商会は、北部から仕入れたのか……」
だから、それがどうしたというのか。レクシスはため息をついて、毛糸で編まれた布地の服をマティアスの袖に通そうとした、その時。
……待て。
レクシスの中に予感めいたものが、閃いた。
北部の風土病である銀糸病。北部で仕入れた小麦色の布地。
二つを繋げるのは、北部という単語。
布地をオウルベルクに持ち込んだのは、カルデラン商会。レクシスの義兄であるジェラルド・オリンシアが代表を勤める商会。
ジェラルドは、アルミオシオン時代にシミュラに出会ったことがある。その際に、病について教えてもらったはずなのだ。
病の罹患者が身につけていた衣服は新たな感染源になりうると。
「まさか……カルデラン商会が、銀糸病を」
──持ち込んだ?
愕然とする。
ここでジェラルドの言葉が思い出される。
『──医者の立場を向上させる計画がある。聞いていかないか?』
レクシスは、この先の言葉を聞いていない。
『すいません、お義兄様。私には聞けません』
医者の立場を向上させられるのは、自分自身をおいて他にいない。
他の力を借りて向上した立場など、人を癒やすすべとしてあってはならない。
医術の立場は、医者が向上させていくものだから。
レクシスの答えを聞いたジェラルドは、いつもの仏頂面に感情を伺わせることはなく、ただ一言『そうか』と言った。
それで、終わったはずだった。
「ジェラルド……お前は……」
そんな人ではなかったはずだ。
まだ確定したわけではない。だが、可能性が一握りでもある場合は、伝えるべきだ。
そして、問いたださねばならない。
レクシスは部屋の扉を開く。
深夜。周りには誰もいなかった。
──いや。
奥に二人いる。キノミとパトリツィアの姿がある。
彼女らは、レクシスの姿を認めると同時に駆け寄ってきた。
「遅いな、キノミ。マティアスの処置はこちらで済ませておいた。グラシア草の鎮静剤を使ったけど、文句は言わないでくれよ。君の声は可愛らしいけれど、今の僕に受け止める自信はないからね」
軽口を叩くことにも、喉の痛みで精一杯だ。
だが、どうしたことだろう。
キノミの顔が、歪められているのは。パトリツィアの顔が後悔に打ちひしがれているのは。
「……?」
キノミがレクシスの身体にぶつかる。
そして、泣き始めた。
顔を胸に押し当てて、拳を震わせながら。静かにすすり泣くような、泣き方だった。
村のあのときとは、違う。
「パトリツィア……?」
顔を上げる。
パトリツィアが、唇を噛み締めている。
いったい、なにが……。
「正教会のタリゥム治癒師。──彼が、何者かの手により殺されました」
時の止まる音がした。
雨が、一際激しく降り始めたような気がした。
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