33.『僕の仕事』

 レクシスはマティアスの噛み締められた顎の下に手を当てる。


「気道を開きます」


 片手は額に、もう片方は顎下を支えて顎を押し上げた。すると信じられないほど簡単に顎が上がり、喉を塞いていた舌が外れて、マティアスは息を吹き返す。


「……マティアス……!」


 レクシスは素早く、冷静に鞄から注射器を取り出すとマティアスの左腕を露出させた。


「マティアス君は『病の種』に侵されています。このままでは自分の身体を壊してしまう」


「では……」


 注射器の中には、無色透明の液体がある。


「筋弛緩の鎮静剤を打ちます。グラシア草と呼ばれる薬草の成分を抽出したものです」


 ライアスは一瞬何かを思い出すように俯いて、はっと気づいたように顔を上げる。


「グラシア草……北部の有名な毒草じゃないかっ! 帝国司法院が麻薬として取り締まっている……あの……!」


 レクシスはあくまで静かに言った。


「はい。グラシア草は多量に摂取すれば頭に重い障害を残す麻薬として機能します。しかし、少量でしたら筋弛緩剤として優れた効能を発揮するのです。しかし、シミュラ先生の発見で、これまで多くの人々が救われてきました」


「……頭に重い障害……」


「この鎮静剤は筋弛緩作用と共にグラシア草の脳機能を麻痺させる成分をも含んでいます。副作用として運動機能の障害、失語症、意識が戻らない可能性があります。しかし、規定量で副作用が発症する例は今のところ動物実験の数件のみ。薬を打つことでマティアス君の生存確率を大幅に高めることができるのです」


「…………っ」


 ライアスの瞳を見つめる。彼は、迷っている。


「ライアス殿。私を信じていただけますか? 必ず、マティアス君の命はお助けいたします」


 沈黙。

 この間もマティアスの弱々しい呼吸が鳴らす耳障りな音が聞こえてくる。

 やがて、ライアスは絞り出すような声で頭を下げた。


「……それで、マティアスが助かるのならば……打ってくれ」


 肩を落として呟く。


「もし、薬で命が助からなかったとしても、私が地獄でマティアスに責められる……だから、打ってくれ……頼む……!」


「ありがとうございます。よく決断なさいましたね。貴方の勇気に、敬意を」


 レクシスは頬を緩めて軽く頭を下げると、添えられた注射器を慎重に刺し込んだ。


「七つの男児には、きっちり二目盛り分です」


 曲げられて震えていた筋肉が、徐々に力を失わせていく。

 やがて、ぱたりと腕が落ちてマティアスは静かになった。ほっとするライアスに反して、レクシスは未だに動いたままだ。腕が鞄に潜り込んで小さな金属筒を取り出した。


「喀血に対応して酸素の投与を行います」


 喉奥に差し込む。金属筒からぷしゅ、と気の抜ける音がした。

 レクシスは動かない。ただ胸元をじっと見ている。

 やがて、マティアスは激しい咳とともに血の塊を吐き出して、乱れた呼気を整えた。


「……ふぅ」


 レクシスは無意識に詰めていた息を吐き出す。「応急処置は終わりました」


「……これで、マティアスは助かるのか……⁉」


 ライアスは涙をこぼしそうになりながら、マティアスの手を握っている。


「残念ながら、まだ助かりません。応急処置は死神の鎌を砕くものではなく、盾を差し込んで止めるものです。今開発している新薬を打ち込むまでは油断は許しません」


 額にかいた汗を拭って、安心させるように微笑みかける。


「今は喜びましょう。ライアス殿。稼いだ時間を以ってして、薬を必ず完成させてみせます」


 ライアスの肩に、そっと手を触れさせる。

 途端に膝から崩れ落ちて、ライアスは感情を爆発させた。


「そうか……そうかっ……良くやってくれた……!」


 これだ。

 この表情を見るために、僕は医者をやっている。

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