32.『死への秒針』
領主の館は、大混乱に陥っていた。
領主ライアスの亡き妻の形見、マティアスの容態の急変。館に勤めている従者たちは、各々右往左往することしかできず、祈りに頭を垂れることしかできない。
教会の治癒師に連絡が取れないのだ。長年この街の治癒師を勤め上げたタリゥム師は使者を送っても、見つからず。
狂乱のなか、ただ一人。理知の光を目に宿して、マティアスに触れる者がいた。
オウルベルクの領主、ライアスだ。
「エメ、フォール! お前たち二人はマティアスの足を押さえてくれ!」
ライアスの呼びかけに応えて、二人の従者が進み出る。
「は、はい!」「分かりましたっ」
従者にマティアスの両足を押さえつけさせる。が、ベッドの上で跳ね回るマティアスの身体に弾き飛ばされた。
「くっ……!」
「なんて力なの……こんな力どこから……!」
見えない糸で操られているように、足も腕も筋肉が内へ内へとねじ曲がっていく。まるで胎児に逆行していくように、悲鳴を上げる筋肉や骨を気にしないで、引き攣っていく。
──古くから、北部に伝わる伝承がある。
「……病神様への捧げ物」
従者の一人が、呆然と呟いた。
瞬間、ライアスは従者の胸ぐらを掴んで顔を近づける。睨みつけられた従者は、天敵に遭遇した兎のように身を縮めた。
「ひっ……」
「二度と、そのような言葉は口にするな」
ライアスはそれきり従者を見向きもせずに、マティアスのそばに駆け寄った。
そして、引き攣る足を正して、マティアスの耳元で叫ぶ。
「眠ってはならん! 起きろ、起きろマティアス‼」
「っ……ぁ」
「お前は強い子だ、帰ってこい……帰ってこい‼」
その声が届いたのか、ゆっくりと睫毛を震わせながらマティアスは目を開ける。
引き攣った顔の筋肉が、まるで笑わせているように見えた。
「マティアス!」
「……あれ……おとうさま……?」
ぼんやりとマティアスは必死の形相でこちらに繋ぎ止めようとする父親の姿を見て、その顔に不思議そうに手を伸ばそうとする。
しかし、腕の筋肉は言うことを聞かずに痙攣するのみ。
「……へんなの……うでが、ぼくのものじゃ、ないみたい……」
その様子がおかしかったのか、笑おうと身をよじる。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
激しく咳き込んで、ゆっくりと、マティアスは揺れる目線をライアスの目元に合わせた。
真っ赤に染まったライアスの顔。粘ついたしずくが、ぽたり、ぽたりと床に落ちる。
へへっ、とマティアスの頰が痙攣した。
「おとうさま、かおまっか」
「マティアス……!」
マティアスの吐血に、従者たちは悲鳴を上げて部屋の外へ我先にと逃げ出した。
一人残されたライアスは、マティアスの手を握りしめて震える声で囁いた。
「すまない、すまない……こんな不甲斐ない父親で、本当に、すまない……っ」
「……おとうさま、ないてるの……?」
赤く染まった視界が歪む。身を切るような痛みが胸を貫いた。
眼下には、不思議そうに小首を傾げるマティアスの顔がある。その口元に自分が吐き出した血を流して、不思議そうに見つめている。
いきなり苦悶に顔を歪めた。
「……あっ、っ……けほっ、かほっ……!」
「マティアス⁉」
マティアスが白目を剝いて苦しみ始める。
首が痙攣を起こして激しく揺れる。身体に一本の板を入れたように突っ張り、ガクガクと揺れて、喘鳴を漏らし始めた。口元から赤い泡を吹き出して、首元に指を締めつけるように押し当てる。
「……っ、息をしていない……⁉」
顎がもの凄い勢いで閉じられて、歯がガチガチと鳴る。歯が砕けたのか、唾液と一緒に赤い泡と白い破片が口から流れ出る。
顎を引こうとするが、子供とは思えないような力に全く動かない。筋肉が千切れる耳障りな音がする。盛り上がった筋肉が震えていた。
「嘘だ、嘘だ! マティアス、マティアスッ‼」
こひゅー、こひゅー、と命が削れる音がする。
「……あ、ああ……!」
ライアスは、目を見開いて、命を落とす息子の姿を目に焼き付けていた。
妻を奪い、息子さえも奪おうと鎌を振る死神の姿を幻視する。
病神のケタケタと嘲笑う耳障りな声がどこかから響いてくる。
どうして、こんなことをするのか。
どうして、何の罪もないカエとマティアスを病は選んだのか。
どうして、病は──!
──……。
ぽん、と。肩を叩かれる。
ライアスの横に、レクシスの顔があった。
「──良く持たせましたね。ありがとうございます」
白い布で顔の下半分を覆って黒い革手袋をしている少年がライアスを見て、微笑んだ。
「……レクシス、殿」
「下がってください、ライアス殿。──ここからは、私の仕事です」
病神の顔が酷く不愉快に歪むのを、見た気がした。
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