31.『急変』

「……貴方は?」


 老人はゆっくりと品定めするような目つきでレクシスを観察して、ちらりとテーブルの向こうに座るパトリツィアを見た。


「……?」


 その視線を受けたパトリツィアは、何かを思い出すように目を細めた。


「さあてね。私はただ、このレストランに食事を取りに来た老人だ。少し、懐かしい言葉が出てきたので思わずかまってしまった」


 好々爺じみた笑みを浮かべて、老人は懐から手帳を取り出す。上質な革で綴られたそれは。


「僕の手帳……?」


 確かその手帳はキノミに貸し出していた最中だったが……。


「おや、君のだったのか。すまないね、通りに落ちていたもので」


「落ちていた?」


 くるりと回して手帳を差し出してくる。

 受け取り、中身をパラパラとめくる。間違いない。自分の筆跡で、自分の書いた手帳だ。


「……あれ、予防薬のページがなくなってる……」


 予防薬の基礎理論を書いたページが丸ごと抜け落ちている。痕跡から見るに、強引に破かれたのではなく何かの器具を用いて精密に抜き取ったのだろう。

 誰が、何のために……そういった疑問は不思議と湧いてこなかった。

 目の前の老人は、レクシスの心の中を覗いているかのように、ただ微笑んでいるだけだ。

 あるいは、そう感じるのも錯覚だろうか。


「ありがとうございます。これは僕の日記をも兼ね備えたもので、大切なものだったんです」


「そうかい? なら良かったよ」


 老人は立ち上がる。彼の目の前の料理はまだ手つかずのまま湯気が立ち上っていた。


「もうお帰りですか?」


「ああ。この店の味付けは、私には合わなかったようだ。金はもう払ってある。良ければ君たちが頂いてくれ。……楽しんでくれる者にこそ食べてもらいたいというのが、料理の本望だと私は思うからね」


 そう言って、老人は隣の椅子に畳んで置いてあった外套をばさりと広げて羽織った。


「連れを待たせているのでね」


 ──漆黒の基調に、黄金色の刺繍。


「貴方は……!」


 パトリツィアが瞬時に立ち上がろうとするが、膝がテーブルに当たる。


「では、またいつか」


 老人はパトリツィアの呼びかけには反応を返さずに、悠々と歩き去った。


「──」


 手帳をめくる。

 抜き取られたページより後のページに、自分の書いた覚えのない文字が書かれていた。


『帝都はすでに落ちた。病は帝国を落日へ導いて、全てを燃やし尽くすだろう。それが、神の住まう我らが故郷を支配した代償なのだ』


 ──……。

 手帳を閉じる。


「監視官が、こんなところに? オリンシア代表へ派遣されてきた監視官でしょうか……?」


 パトリツィアの呟く声がまるで泡の皮膜を通しているようにぼんやりと聞こえてくる。

 予防薬のページ以外は抜かれていない。つまり、手帳を抜き取った人物はこの手帳の内容を理解するほどの知識は持っていることになる。

 昨晩、キノミに貸し出していた手帳。そして、それほど医術の知識を持っている人物。


 教会と医者の敵対関係。

 ……キノミは、教会の治癒師見習いだ。

 まさか。……いや、でも。


「パトリツィア」


 レクシスの顔を見たパトリツィアは眉をひそめた。


「……はい」


「嫌な予感がする。……キノミを呼んできてくれ。問いただしたいことがある」


「ですが、キノミさんは街外れの教会に──」


「僕のことは構わない。研究室にいるから、そこまでキノミを連れてきてくれ。……出来る限り、早く頼む」


 直接、確かめなければならない。

 それに、キノミのあの瞳の色は、そんなことをする色ではなかった。

キノミが裏切ったなどと──。

 瞬間、店内の扉を叩き割るような勢いで男が走り込んでくる。そのまま血走った眼で周囲の客たちを見渡した。そして、その目がレクシスの顔を捉えると泣き出す寸前のような形相へと早変わりを見せる。

 一瞬、息を吸うのを忘れた。


「助けてくださいッ! 領主様のご子息、マティアス様の容態が急変したのですッ!」


「っ……⁉」


 目の前で息を切らしていたのは、領主の館で見かけた従者だった。


「ああ、グラマン殿……!」


 滂沱のように汗を流しており、喘鳴を鳴らしている。相当な勢いで走ってきたのだろうと当たりがついた。「何があったのですか、そのような格好で……」パトリツェアが立ち上がり、自分の椅子を従者に譲ろうとするが、その従者は決して座ろうとはしなかった。

 頭を下げられる。


「お願いします、マティアス様をお助けください! あの子は、もう時間がないんです……ッ!」


「教会の治癒師はどうしたんだ……?」


 マティアスを正式に担当しているのは治癒師のはずだ。なぜ、医者であるレクシスのところへ頼りに来ているのか。


「それが、連絡が取れなくて……それで、ライアス様がグラマン殿に頼れ、と私を、ここへ……!」


「っ、すぐ行く! マティアスの症状は⁉」


「夕食を届ける際、マティアス様がいきなり気を失うように眠ったのです……それに、熱が急激に上がって……足に板を入れたように突っ張り始めて……」


「気道を、顎を引いたか⁉」


「分かりませんっ! ライアス様がつきっきりで看病をしておりますが、正直私どもは何が何やら分からなくて……‼」


 ライアスがどの程度、人の身体の仕組みについて理解しているのか分からないが、シミュラ譲りの医術の知識がある人が患者のそばにいてくれることはありがたいことだ。


「行くのですね」


 パトリツェアが目線を合わせて問いかけてくる。


「ああ!」


「では、私はキノミさんを探しに教会へ向かいましょう」「頼む」


 レクシスの判断は早かった。

 即座に鎮静剤と抑制剤の瓶を確認すると鞄に叩き込む。そして、店を飛び出した。

 従者が必死についてくる。

 風を切る音に負けないよう、レクシスは叫んだ。


「くっ……間に合ってくれよ……!」


 研究室から領主の館まで、徒歩で十分。

 それを、レクシスとライアスの従者は五分足らずで駆け抜けた。

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