37.『逃亡劇』
パトリツィアはレクシスに医療用具の詰まった肩掛け鞄を差し出す。部屋に連れてこられた際に取り上げられたと思ったが、取り返してくれたようだった。
止血を済ませて、扉の外を見る。
騒がしい足音が近づいてくる。
「どうやって僕がここにいるって分かったんだ? それに、キノミは……」
タリゥムはキノミにとって親代わりだと聞いた。とても辛かっただろうに。
「私はキノミさんの監視官ではなく、貴方の監視官なのですよ。普通に後追いです。 キノミさんに頼まれたということもありますが、元々の責務を果たしているに過ぎません」
「あんなに泣いていたのに?」
「キノミさんは貴方の思っているよりも強い人です。貴方の行方を心配していましたよ」
泣き声を思い出す。あんなの、どうやって泣き止ませればいいのか。そうこう考えているうちに彼女は眠ってしまった。
キノミもまた、レクシスと同じく無理を通していたのだ。
しかし、彼女がレクシスに協力してくれたこと、それ即ちタリゥムがキノミを放任していたことになる。治癒師として老境まで生きてきた彼は、いったい何を思って年若い医者であるレクシスに、自らの弟子を預ける気になったのか。
永遠に本人の口から語られるときは来ない。
「……ガキのくせに、自分を心配しろってんだ」
「同程度のお子様が何か言っていますね」
「……僕は子供じゃない」
この議論は不毛だ。
冷ややかな目を向けられる。そして、身体についた無数の傷を目にした瞬間、パトリツィアの気配が変わった。
「……その傷はどちらから?」
温度を感じない口調にひやりと背筋が凍った。
「待てよ、この商会を血の海に変えるつもり?」
「必要とあらば。監視官は帝国司法院の名の元に、犯罪者に対して略式処刑する権利が与えられています」
馬鹿げている。
「とりあえず、ジェラルドを探そう。話はそれからだ」
「いいえ、まずは貴方の治療が先です」
パトリツィアはじっとレクシスを見つめていた。
「体調が悪そうですね。いつからですか?」
ばれていたのか。
「別に、悪くないし」
「……このお子様が。真面目に答えてください」
「二週間前から熱と頭痛の症状はあった気がする。関節痛に筋肉痛まで出始めたのは昨晩だな。ほら、動くのに問題ないよ。だからそんなに──」
「黙ってください。よりにもよって『
レクシスは人差し指を立てて左右に振った。
「医者の付き人ならば正式な名前を覚えておけよ。流行性感冒だ、監視官殿」
「そんなことはどうでもいいです。……酷い熱。立っていることも辛いでしょうに」
パトリツィアは少し迷った後、レクシスを軽々と抱え上げた。ちょうどお姫様抱っこと世間一般で呼ばれるような持ち上げ方だ。
「おい、パトリツィア……!」
これはなんの冗談だ?
「これが最速です。病人は口を閉じていてください」
一瞬の踏み込み。
瞬間。
パトリツィアは馬にも勝る速度で猛然と駆け出した。
障害物をことごとく、躱し、蹴り上げて、前に進む。途中の従者たちは目を丸くしてこちらを見ているが、パトリツィアは気にもとめなかった。ただ、出口を目指して駆けていく。
「止まれっ!」
黒いスーツ姿の従者たちがぞろぞろと周りを取り囲む。短杖に仕掛け弓、鞭。様々な武装を持っている。
「商会に不法侵入しておき、多数の器物を損壊させた。この罪は重いぞ!」
「……暴力、拉致監禁。三拍子揃った相手が何を言っているのやら」
「ッ、取り押さえろ! 腕や足の骨を二、三本折っても構わない!」
一斉に飛びかかってくる。寸分違わぬ包囲網。全方位に攻撃の軌跡が見え、僅かにタイミングをずらしている。
『囲んで殴る』ことに特化した集団。明らかに訓練された動き。商会はこんな人材までも雇っていたのか。
「──」
レクシスは見た。
パトリツィアの頬が、確かに不快げに歪められるのを。
「っ、てめぇら逃げろ! 死にたくなければ全力で屈めッ!」
気づけば、黒スーツの従者に向かって言っていた。
「っ‼」
次の瞬間、パトリツィアの拳が地面に向って叩き込まれた。
建物全体が激しく揺れる。上質な木材で出来た床に大穴が空いて──一瞬遅れて、世界が終わるような轟音が鳴り響く。固い木材や堅牢な石材が、まるで液体のように衝撃波に沿って波打って、そして限界に達したのか、バラバラに砕け散った。
飛びかかってきた黒スーツの従者たちは全員が吹き飛ばされたり、瓦礫に押し潰されたり、屈んで震えたりしている。
辺りは地獄絵図そのものだった。
「っ、パトリツィアッ! おま、何してくれてんのさ⁉」
「正当防衛です」
さらりと目の前の彼女は言う。
「帝国司法院は何を教えてんだよ、過剰防衛だろどう考えてもっ‼」
一瞬にして商会の建物に深刻な被害を与えたパトリツィアは、己が生み出した阿鼻叫喚に目もくれず、再び駆け出した。
今度は誰も行く手を阻まない。
そして、商会から飛び出したとき、奥から急いでやってくるジェラルドの姿が見えた。
破壊された商会を見て、目を丸くしている。更に、パトリツィアに抱えられて逃げ出すレクシスを見て、ジェラルドは固まっていた。
「レクシス……? 何をしているんだ……?」
レクシスの目には、ジェラルドの表情に怒りや焦燥といったものは見えなかった。
ただ、深い困惑が見て取れた。
まるで何も状況を理解していない患者が、見せるようなそんな感情。
……何を馬鹿なことを。
お前が病をばら撒いて、教会に刺客を送り、治癒師を殺害したじゃないか。
何で、そんな顔ができるんだよ。
「逃げますよ。ここでは分が悪いです」
「誰のことだよ」
パトリツェアならどんな敵も一撃で木っ端微塵に出来そうだ。
「私一人でなら楽勝ですが、レクシスを守りながら戦うのは厳しいのです。見てください」
後方の奥より、がらがらと車輪の音を立てて巨大な砲台のようなものが現れた。数人がかりでようやく動かせるもの──断じて人に向けるものではない。
「捕鯨用、でしょうか。火薬の力で鎖を射出する大砲です。流石に勝てません」
「……監視官と鯨は同列……?」
「だからといってここまで引っ張ってきますか? こんな海から遠く離れたオウルベルクの街まで……」
ズレた指摘をするパトリツェアに言葉を被せる。
「っ、来るぞ‼」
雷が落ちるような轟音とともに、鋭く射出された鎖がパトリツィアを狙う。先端のもりに当たるどころか、鎖が身体を掠めた時点で衝撃波によって粉微塵にされそうだ。
「ハッ!」
正確無比にこちらを狙う鎖を、パトリツィアは剣の一振りで斬り伏せた。断つことは叶わなかったものの、威力を減衰させて明後日の方向へ向きを逸らす。
パキリ、という音。
「レクシス、剣にひびが入りました」
「その報告って本当に必要?」
「いえ、特には」
ひびが入った剣を足で砕き、懐から新品の剣を取り出す。
「パトリツィア。後で君の精神構造と肉体強度を測らせてくれ。わりとマジで興味が出てきた」
「戯言はそこまで」
レクシスの頬を掠めた矢を掴み取る。
握り砕く。
「領主の館に戻ります。銀糸病の予防薬についてキノミさんからお話があります。弱毒が叶う薬草を見つけたのかもしれません」
パトリツィアは床を蹴ると石畳が放射状に砕かれて、彼女は屋根へ着地する。
無論、抱き抱えられたレクシスはその意味不明な挙動に目を丸くしている。
そのまま冗談のような軽業で屋根を伝って、パトリツィアはレクシスを連れてあっという間に商会から逃げ出した。
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