8.『ままならぬ決意』

「眠っているんですか……?」


 闇の中で声が揺らめいている。


「もし、起きているのでしたら答えてください。あなたは、治癒師が嫌いなんですか?」


 レクシスは身じろぎして、ゆっくりと目を開ける。


 馬車の揺れ。窓の外の景色が後ろへ流れていく。寒気が身体を蝕んで、ぶるりと震えた。

 目の前には燃えるような赤毛を流した少女がいる。


 ああ、寒い。これは懐かしい寒さだ。

 ふと、レクシスは昔のことを思い出した。師匠であるシミュラに連れられて、アルミオシオンから初めて出た時の事だ。その時もこのような馬車に乗って揺られていた。

 隣には、今よりも背の小さなパトリツィアがいた。彼女の父は帝都から派遣された監視官だ。彼に連れられて、パトリツィアもアルミオシオンまでやって来たのだ。


 ワインバーグ帝国の遥か北、その山嶺の間に医学の聖地であるアルミオシオンはある。

 雪が年の大半は降り続ける極寒の地。

彼女の父とシミュラが話し込んでいる。それをレクシスとパトリツィアの二人は同じ毛布に包まりながら見ていた。


 ……あれから、八年と少し。

 アルミオシオンは滅び、パトリツィアは亡き父の跡を継いで監視官となった。

 そして、レクシスは──。


 答えが返ってこないことに、どこか安堵したような表情でキノミは乗り出した身体を座席に戻す。

 レクシスは、身体に力を入れた。


「別に、嫌いなわけじゃないさ」


「あ……」


 ぱきり、と背骨が乾いた音を体内で鳴らした。固まった身体をほぐしながら、慌てたようにフードを被るキノミをじっと見る。視線に気づいたのか、動きがぴたりと止まった。


「ただ、あの男が不憫だっただけだよ」


「……それは、どういう意味ですか?」少し口調が棘を帯びた。


「さあね。少なくとも、君が聞いて嬉しい話ではないことは確かかな。ここで泣き叫ばれるのは勘弁願いたいからね」


 キノミは顔をしかめた。詰め寄ってくるかと思えば、胸に手を当てて深呼吸をしている。

 そして、毅然とした瞳でレクシスの青みがかった黒色の瞳を見つめた。


「不憫だと思うのは、あなたの傲慢です。カルロさんは一週間、水と塩を除いて何一つ口にしませんでした」カルロ──ああ、あの男の名前か。「獣に穢された魂を清めたんです」


 強い光がキノミの瞳に宿る。


「カルロさんの魂は我らが主の身元まで昇りました。彼は、微笑みながら去ったんです。苦痛に負けず、家族のそばに寄り添い、最後の瞬間まで彼の奥方の手を握っていました」


 その光から、レクシスは目を逸らした。何かを信じている人の姿はレクシスには眩しいものだ。未だに迷いのさなかにある自分と対比してしまう。そして、この少女に心の奥底に吹き溜まる黒い感情を見抜かれたくなかったというのも、僅かにあった。


「……しっかりとした食生活と薬さえあれば、さらに長生きできたはずだ」


 掠れた声が出る。


「確かにそうかもしれません。でも、本人が望んでいないのに魂を穢してまで命を引き延ばす行為は、善良だと言えるんでしょうか?」


 善良? 善良だと?


「命を救うのに善悪は関係ないだろう。馬鹿げている」


 医者は決して裁判官ではない。


「あなたの言い分も分かります。治癒術はまだ、完璧じゃありませんから」


 意外な返答にレクシスは驚いてキノミの顔を見る。


「治癒師ではないあなた──『医者』であるあなたにお訊ねします」


「……どこでそれを」レクシスは驚いて目を見張る。


 キノミは静かに呟いた。


「命とは、どこにあるんでしょうか。何を意味するんでしょうか?」


 命の所在。命の意味。レクシスの脳裏には、瞬時に数十の答えが巡った。

 心臓の鼓動。脳幹の有無。大脳の活動。脊椎の存在。──その他全てを包括する宇宙にも等しいもの。それが命。


 では、その意味とは?

 答えは、喉奥まで出かかって、そこで霧散した。


「……それは」


 分からない。

 レクシスは、知らない。命の意味など、考えたことがない。


「あたしは、治癒師の見習いです。ツィタル正教の敬虔な信徒として治癒師を志している一人です」


 戸惑うレクシスを見やって、キノミは胸に手を当てた。「あたしには、難しいことは良く分かりません。あなたの言う医学も、治療のために刃を相手に刺し込む行為にも理解できません」


 それが、治癒師の限界だ。


「けれど、みんなに幸せになってもらいたい」


 そして、レクシスの手を自分の手で包み込んだ。

レクシスの手は、長い睡眠で冷たくひんやりと凍えている。


「──命というのは、幸せになるためにあると思うんです」


 穏やかな声が囁く。


「…………」


「そのお手伝いをするために、小さな力を振り絞っているのが治癒師だと、あたしは思います。……アルンテラス様のようなすごいことができなくてもいい。寄り添って温める。苦痛を取り除く。それがあたしの目指す治癒師の道ですから」


 レクシスは、キノミの決意を呆然と聞いていた。そのまま呆けているわけにはいかない。身震いと共にキノミの両手から自分の手を引き抜く。


「……本当に、不愉快だな」


「あ」


 僅かにこもった声。小さな罪悪感が背筋を伝う。


「なんだって言えるさ」


 それを振り払って、唇をへの字に曲げる。


「僕は治癒師を認めるつもりはない。君の決意は立派だけど、香を焚いて死に行く人に死に急がせる治癒術を、僕は人を癒やすすべとは認めない。あんなのは、ただの自殺幇助だ」


「そんなの──」


 キノミが口を開いたその時だった。


 ──!


 馬車の引き馬の悲鳴のようないななきが聞こえた。それと同時に御者の叫び声も聞こえてくる。切迫したような怒鳴り声だった。

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