39.『約束』

 今は遠い景色を見ている。

 雪に沈んだ銀色の夢。

 それを、レクシスは毎日のように見ている。


 その日は静かな日だった。

 いつものように雪を舞い上げる吹雪は吹いておらず、街の人たちは分厚い毛皮などを纏っていない珍しい日だった。


 少なくともレクシスの認識では、その日は、そういうことが印象に残っていた。

 アルミオシオンの創設者であり、医学をもって医術の世界を切り開いた天才『医師』シミュラは、数ヶ月前より自分の研究室に閉じこもって、研究を続けていた。


 レクシスは一人。

 少し緊張してこわばっている頬を引っ張ると、深呼吸して病室の扉を開いた。

 手には、鮮やかに咲き誇る紫色の花束がある。

 久しぶりに太陽が窓の外に登っている。


 そんな窓を、『彼女』はぼんやりと眺めていた。

 起き上がって眺めているわけではない。『彼女』の筋肉はそこまでのことができない。ベッド自体が駆動し、背もたれとなって起き上がっている。

 レクシスが病室に入ってきても『彼女』は反応しない。


「顔を出せなくて、ごめん。最近は研究が忙しいんだ。教会の干渉も酷くなってきていて」


 反応はない。

 レクシスはもう一度深呼吸して、今にも砕けそうな陶器を連想させる白い腕に触れた。


 ぴくりと筋肉が反応する。

『彼女』の目は窓の外に向けられたままだ。

 瞳は空から軽やかに降ってくる雪の結晶をピクピクと反射的に追いかけている。その瞳に、感情の色はない。


「……雪か。ガリテア、君は雪が好きだったね」


 反応はない。

 その様子に、レクシスは小さな息を吐いた。


『彼女』はガリテア・グラマン。レクシスの妻だ。

 ガリテアはレクシスに並ぶ天才として、外部よりアルミオシオンに入った少女だった。

 親に捨てられて、シミュラに拾ってもらった少年──レクシス。商会を開くことを夢見た少年がアルミオシオンに取引として残していった幼い少女──ガリテア。


 二人が出会ったのは、アルミオシオン医科大学での生体工学に関するシミュラの入学式公演の会場だった。

 シミュラの助手として公演に付き添っていたレクシスと、僅か一桁の年齢でアルミオシオンの学術機関の門戸を叩いたガリテアは出会うべくして出会ったのかもしれない。

 レクシスとガリテアは、互いに競うように切磋琢磨を繰り返し、様々な医学分野の新説を交互に、または共同で発表し、プライベートでの交流を深めて──やがて、恋に落ちた。


 誰かがレクシスたちを『連星』と称したことを覚えている。

 夜空に輝く星のごとく、アルミオシオンをこれからも率いていくのかと誰もが思っていた。レクシスもそう思っていた。


 ……だが。

 ガリテアは一年前に病に倒れた。

 病は身体を蝕み続けて、今に至る。病名は不明。感染経路も不明。『病の種』も既存種とは大きく異なっているために解析が止まっている。……アルミオシオンの限界だった。

 今はもう、身体に触れる温度でしか外界を認識できない。声を届けることも出来ないで、ただそこに生命維持の装置が繋がれて存在するのみだった。


「……どうしてだろうな。君は何も悪いことをしていないのに。どうして、病は君から全てを奪うんだ」


 声が震えた。

 それを抑えて、レクシスは病室の花瓶に備えられていた萎れた花をゴミ箱に捨てる。花瓶を洗って、そして、新鮮な花に入れ替える。


「……君の構造を調べたよ。シミュラ先生が開発した『見えない光』を使った器具が役に立ったんだ……本当に、意味わかんないよね。肉を透かせて骨の写真を撮るなんて」


 シュミラは何者なのだろうと、時折考えることがある。レクシスの知る限り、教会の大聖女と仲違いをしてアルミオシオンを建てたときには、すでに今の姿、外見だったという。


 彼女はツィタル正教を否定しているが、神を否定したことはないのだ。これほどの知恵と知識……レクシスは神を信じてはいないが、シミュラが天からやって来た神の使いだと言われても、すんなりと受け入れてしまいそうになる。

 それほどシミュラという老婆は、予想を超えていた。

 ガリテアの担当医であるレクシスは、反応のない彼女に向かって続ける。


「大半の臓器は、すでに機能を十分に果たしていない。多くの臓器の被膜が溶けて穴が空いている。血液も輸血で凌いでいる状態だ。……全身の骨髄が壊死するまで、後どれくらいか……正直分からない」


 それはガリテアの陥っている状況。すでに助かる見込みのない肉体をアルミオシオンの技術を使って、命を引き伸ばしている。人工臓器を無数に繋ぎ、身体には壊死を食い止めるための薬液を常時注入して、生き延びさせている。

 想像を絶する苦しみを味わっているはずだ。


 たが、彼女は穏やかに窓の外を眺めている。痛覚が機能していないのだ。眼球の視力も失われて、聴力も失われて久しい。

 太陽の光の熱をぼんやりと感じ取るだけ。……肉体反応を返す、抜け殻とでも言おうか。


 ……ふと、考えることがある。

 今のガリテアは、本当に生きているといえるのだろうか?


「脳機能は……大脳の八割が海綿体状に壊死しているよ。脳幹はまだなんとか無事だけど……それも、いずれ終わる。……自発呼吸ができなくなれば、また器具を追加で持ってこなくちゃね……今度は君の顔を覆うことになるから、もう君の顔も見られない……大変だね、本当に……大変だ」


 そこまで呟いて、レクシスはいつの間にか自分の視界が涙で溢れていることに気づいた。


 拭っても、拭っても止まらない。

 ぽたり、ぽたりとしずくが落ちていく。


「……っ、ガリテア! ごめん……ごめんな……!」


 どうして、病はガリテアを選んだのか。

 人が病に侵される原理は理解している。嫌というほど確かめてきた。

 だけど、それでも、納得できないのが人間という生き物のさがなのだ。

 生きて、死ぬ。その無窮の輪廻に理由を求めるのが理性を持ってしまった人間の生きる道。


 ならば、神よ。


 人間を、動物を、世界を創り出した万物の創造主なるツィタルの神よ。


 なぜ、人間に理性を与えた。

 なぜ、人間に病を乗り越えられる力を与えた。

 それでいて、なぜ、人間に病は乗り越えられるものだという幻想を与えたんだ。


 病はただ、吹き抜ける風のように、生きるものの都合など考えてはくれない。天災のように、苦しみを与え、命を奪い、そして、病を乗り越えたものに祝福を与える。

 その理こそが、病が病たる根源。


「っ、‼」


 それに抗うために、レクシス──僕は、医術を学んでいる。


 だから、今は泣いている場合ではない。

 泣くことなんて、後でも出来る。

 今は。


「──僕が」


 ──前に。


 前に進まなければ。

 医者として、医術を学んでいる以上、手がかりがまだあるはずだ。


「君を、救ってやる」


 シミュラ先生は言っていた。


『先も見通せない真っ暗な闇の大海原にその身一つで漕ぎ出すこと』


 かつて、黄金郷を夢見た人々が海へこぞって漕ぎ出したのと同じように。


「絶対に、救ってやる‼」


 漕ぎ出すのだ。

 漕ぎ出せ。

 早く、正確に。

 全ての命を救うために、強く──!


 ここでいつも夢は終わりを迎える。

 夢は夢のまま。


 この日から一週間もしないうちに、ガリテアは死んだ。

 それから一ヶ月もしないうちに、アルミオシオンは滅んだ。


 約束は、ついぞ守られなかった。

 全てを失ったレクシスは、夢を見ることしかできない。


 でも。

 あのときの願いは揺蕩い、今、ここにある。

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