七
「おかん、腹減った」
「そうか? そんな気ぃするだけやろ」
「今日のおかず、手抜きやな」
「贅沢言いな! おなかすいてたら何でもうまいやろ!」
「この煮物、かたち崩れてるやん」
「おなかに入ったら一緒や!」
と、こんな調子で日々おかんとおれの掛け合いは活発(?)になっていった。
例の事件……つまり、万引きが見つかり、同級生の親に怒鳴り込まれた件以降、おれには友達がいなくなった。いや、元々友達なんていないも同然だったから、何の変化もないと言えばそのとおりなのだが……。
友達がいないと言っても、別にハブにされているわけではないので、おれから話しかければ返事をしてくれるし、皆、おれの腕力には一目置いているため、もちろんいじめられることもなかった。
ただ、学校に楽しみを見つけられず、ガキ大将にも飽きたおれは、五年生になった時、町の野球チームに入る。別に何でもよかった。空手でも水泳でもサッカーでも。だが、なぜか野球に惹かれたのだ。
プロ球団の南海ホークスがスーパーに身売りをした後だったが、その流れを汲む「大阪ホークス」という少年野球チームがあった。そこに入団することにした。
町の掲示板に選手募集と書かれたチラシが貼られているのを見つけ、おもしろそうだと思い、おかんに相談したのがきっかけだ。とにかく、学校以外の場所で何かをやりたかったのだ。
おかんは手放しで喜んだ。それは、おれが驚き、引くほどの喜びようだった。
おれは、おかんがナイター中継が好きだったこともあり、時々一緒に見ていた。自然にルールも覚え、興味を持っていた。それまで、キャッチボールをしたこともなかったし、バットを握ったこともなかった。(親父が生きている頃は、公園でボール遊びをしたらしいが……)。
でも、やればできそうな気がしていた。まったく根拠のない自信だったが、おかんが手放しで喜んだ理由を聞いて、なるほどと思った。そして、なぜか野球に惹かれた理由もわかった気がした。
親父が生前野球をやっていたのだ。社会人野球の選手だったらしい。ピッチャーで、プロからも声がかかるほどの逸材だったそうだ。
そして、おかんも学生時代、ソフトボールをやっていた。おかんの体型を見て、「キャッチャーやったんか?」と訊き、頭をはたかれた。おかんもまたピッチャーだった。「昔は痩せてた。それに、キャッチャーは座りっぱなしやから痔になるから嫌やったんや」と本気とも冗談ともつかぬ口調で言い、豪快に笑った。
おかんから、親父はスポーツマンだったと聞いていたから、おれの運動神経の良さは親父譲りだとばかり思っていたが、両親から譲り受けたものだったのだ。
おかんは、おれが自分から野球をやりたいと言ったことが本当に嬉しかったようだ。
それまで、おかんがおれに何かしろと強要したことは一度もなかった。勉強もそうだし、習い事もそうだし、野球もそうだった。親父やおかんの若い頃の写真は数えるほどしかなく、野球やソフトボールに関する写真は見つけられなかったし、そういう話も聞かなかった。だから、おれは、親父とおかんが野球やソフトボールをしていたことを知らなかったのだ。
おかんは、「何でもそうやけど、無理やりさせられても嫌になるだけやし、嫌々やっても上達せん。そりゃ、あんたには野球をしてほしかった。でも、あんたにはあんたの人生があるし、人格もある。だから、あんたが自分から野球をしたいと言うのを待ってたんや。別に野球やなくても、あんたが自分から何かをやりたいと言えば、歓迎してたと思う。やらしてあげたと思う。まあ、野球をやってほしくて、ナイター中継観てたっちゅうのはあるけどな」といたずらっ子のように笑い、続けた。「好きになって始めるのが一番や。好きなことやったら勝てるやろ」と。
好きなことなら勝てる。
数あるおかんのことばの中でも、最も好きなことばのひとつだ。
まわりの子供たちが、親に習字やスイミング、塾などに通うよう言われ、嫌々行っているのを知っていただけに、おれは子供ながらに、おかんの考え方の素晴らしさに感動した覚えがある。おかんの子でよかったとさえ思った。
だが一方で、これほどのプレッシャーはないと、子供心に感じたものだ。
好きで始めたことは投げ出せない。そして、おかんが言うように、好きなことなら勝てる、勝たなければならない。
ただ、別にそれが足枷になり、上達が遅れることはなかった。
おかんは押入れの奥からダンボール箱を引っ張り出し、その中から色褪せた布袋を取り出した。そして、さらにその中から革の塊を取り出す。
「!」
野球のグローブだった。
「おとうちゃんのグローブや」
おかんはそれをそっとおれに差し出してくれた。
「……」
はじめて手にするグローブという物体。焦げ茶色のそれは、その重さ以上にずっしりと掌に感じられた。それに手を入れたおれは、はじめてながら、よく手入れされていることがわかった。
おかんがおれの気持ちを読み取ったかのように、
「こまめに手入れしてるからな。柔らかくて手に馴染むやろ。それでいて、型は崩れてない」
おれは頷き、袋に一緒に入っていたボールを持ち、それを何度も何度もグラブに叩きつけるようにした。
「あんたが自分から野球を好きになるまでは、それを見せんとこと思ってな。それを見せてしもたら、野球やらなアカンのかというプレッシャーを与えると思ったんや」
「……うん」
「おとうちゃんが最後に使ってたグローブや。形見や。おかあちゃんの大切な宝物やったけど、今からはあんたのものや」
「……うん」
嬉しかった。嬉しかったが、子供ながらに重みを感じた。だが、とにもかくにも、おれは野球が好きになり、野球を始めた。
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