十三

 翌日、野球部の練習に復帰したおれだったが、おかんとのキャッチボールは欠かさなかった。おかんも、仕事でどれだけ帰宅が遅くなろうとも、毎日キャッチボールに付き合ってくれた。薄暗い照明が灯る団地内の公園でボールの交換をした。

 おかんはアドバイスらしいアドバイスはくれなかったが、ただ、一球一球無駄にするなとだけ言った。言われなくても、無駄になどできなかった。おかんの投げる球は速く、それを受けていると、真剣なボールを返さないといけないと思ったからだ。そうしないと、練習に付き合ってくれているおかんに失礼だと思った。

 キャッチボールの距離はどんどん長くなっていった。おかんはキャッチャーのように、決して腰を下ろさなかった。座ると、おれがムキになるとわかっていたからだろう。中腰で、胸の前にミットを構え、ここに投げ込めとだけ言った。最終的にはセカンドベースからホームベースくらいの距離で投げ合った。山なりではない。八分のスピードでもない。勢いをつけて投げるわけでもない。一球一球、きっちりしたピッチングフォームで、全力で投げ込むのだ。

 一日百球。地肩の強さに加え、いつしか球に重さが生まれていた。そしてコントロールも自然と良くなっていった。

 試合でも打たれなくなった。ヘナチョコカーブは封印して、真っ直ぐ一本で攻めたが、ジャストミートされても外野までボールが飛ぶことは稀だった。

 だが、相変わらずおれのワンマンチームで、試合には勝てなかった。大概、〇対一で負けた。必ず試合のどこかで集中力が途切れ、連打されたり、四球を出したりし、点を取られるのだった。

 おかんは、

「まあ、あんたらしいわ」

 と笑いながら、

「最初から最後まで集中力切らさへん人間なんて逆にロボットみたいで気持ち悪いしな」

 と慰めてくれた。

 親父もそうだったらしい。

 親父は真面目で真っ直ぐな男だったそうだ。特に野球に関しては真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐで純粋だった。

 親父は幼い頃、両親を亡くし、天涯孤独の身となり、養護施設で育った。親父は文武両道を地で行く男だったそうで、ガキ大将的存在だったが、一方でそんな親父を妬む輩も多かった。だから、親父にとっての友達は野球だけだったそうだ。野球と言っても、野球チームなどなかったから、施設の園長とひたすらキャッチボールをするだけだったらしいが……。

 本格的に野球を始めたのは高校に入ってからだったらしい。だが、一年でいきなりエースに抜擢されると、夏の県予選でベスト4。二年と三年の時は味方打線が奮わずにどちらも一回戦負け。スコアはともに〇対一。いずれも下位打線に打たれた一本のホームランが決勝点だった。

「おとうちゃんも試合の中で一瞬フッと力を抜く時があってな……人間らしかったなぁ」

「……」

 一年の時、エースとしてチームをベスト4に導いたこともあり、親父は全国的に有名だったそうだ。女子高生が親父のピッチングに黄色い声を上げていたらしい。だから、おかんも親父のことを知っていた。

 そんな親父だったが、二年と三年で一回戦負けしたこともあり、ドラフトにはかからなかった。どれだけ凄い逸材でも、予選で一回戦負けする投手は指名しづらかったのだろう。

 高校を出た親父は実業団の野球部に入る。そこでおかんと出会った。おかんもまた、実業団のソフトボール部に入部していたのだ。

 おかんも親父と似たような境遇だった。十代の頃に両親を亡くし、歳の離れた姉に面倒をみてもらい育ったおかん。姉、つまりおれにとっての叔母は、ソフトボールの選手として有名だったが、両親の死により、それをやめて働かざるを得なかった。実業団から貰う給料だけでは、妹であるおかんを養っていけなかったのだ。

 その話を聞いて、おれは、ガキの頃、叔母から聞いた話を思い出した。

 叔母が、おかんのためにソフトボールをあきらめたのと同じように、おかんもおれのためにソフトボールをやめたことを……。

 叔母は水商売の道に入り、おかんを養った。おかんもまたソフトボールが好きだった。だが、おかんは、志半ばでソフトボールをやめざるを得なかった叔母に申し訳なく、ソフトボールのソの字も出さなかった。そんなおかんに、叔母はソフトボールを勧めた。叔母はおかんの気持ちを理解していたのだ。

 おかんは、叔母に感謝しながら、叔母の分までソフトボールの練習に励んだ。そして実業団からスカウトされるまでになったのだ。

 境遇が似ていることもあり、親父とおかんはすぐに惹かれ合った。

「おとうちゃんもわたしも照れ屋やからな、お互い付き合おうなんていう言葉はなかった。いつのまにか付き合ってた、そんな感じやった」

「……」

 おかんが昔を懐かしむように遠くを見る目になる。

 おれは、親父やおかんにも、子供の頃や青春時代があったのだと改めて思った。物心ついた時から、子にとって親は大人だから、ついついずっと大人で生きてきたと思いがちだが、もちろんそんなことはないわけで、淡い思い出もあるのだ。

 おれは、親父とおかんの青春に、なぜか少しだけ照れた。

「おとうちゃんは頑固な人やった。わたしもそうやから、よくぶつかった。喧嘩の理由はほとんどが野球に関することやった。お互い野球に関しては譲らへんからな」

「……」

「たとえばおとうちゃんが調子を崩した時なんかにアドバイスするやろ? そしたら、おとうちゃんは怒るねん。黙っとけって。おかあちゃんもムキになって勝手にしぃって言う。でも、次の日にはわたしのアドバイス採り入れてるねん。まあ、わたしも気になって、自分の練習しながらおとうちゃんのフォームをチェックしてるんやけどな。まあ、その逆のパターンもあったけど。おとうちゃんのアドバイスに反発しながらも採り入れたりな」

 おかんは照れたように笑った。

「おとうちゃんは順調にピッチャーとしての実力をつけていった。都市対抗で胴上げ投手にもなった。プロ野球のスカウトも注目するようになった。そんな時……二十五の時に、おとうちゃんは肩を壊してしもた」

「……」

「今なら……いや、当時でもお金さえ積めば手術できたと思う。でも、今ほどスポーツ医学は発達してなかったし、ましてや、ピッチャーが肩にメスを入れるなんてもってのほかという時代やった。だから、そのまま引退したんや」

「……」

「おとうちゃんは荒れてた。毎晩毎晩お酒に逃げてた。それはもうひどい荒れようやった。会社も休職した。おかあちゃんは腹が立った。ピッチャーとしての命は絶たれても、人間としての命まで奪われたわけやない。そやのに、自ら自分の命を絶とうとしてどうするんやって、気づけばおとうちゃんのほっぺた叩いてた」

「……」

「それからしばらく、おとうちゃんはどこかへ姿を消した。おかあちゃんは探さへんかった。きっと立ち直って帰ってくるって思ったから」

「……」

「一ヶ月後、おとうちゃんは帰ってきた。吹っ切れた顔してな。おとうちゃんはぶっきらぼうに、『結婚しよか』って言うと、指輪をくれたんや」

 おかんは、左手の薬指をかざした。太ったため、指に食い込んではいるが、キラキラ輝いているように見えた。

「おとうちゃんは旅している間、バッターに転向して野球を続けようと考えたみたい。でも、バッティングは苦手やったし、守備でも肩を使うし、元々野球というよりピッチャーが好きな人やったから。それに、野球を続けたら、ピッチャーへの未練が湧いてきそうで、それが嫌やったって言ってた。だからそのまま引退した」

「……」

「引退したおとうちゃんは潔く、それ以降一切野球とは関わらんかった。コーチとして後輩を育成してくれという話も断って、会社を辞めた。会社に残る道はあったけど、辞めて営業の仕事を始めた。慣れへん営業を必死でやってたなあ……。まあ、会社辞めたからこそ、おかあちゃんと結婚できたんやけどな。当時は職場結婚が禁止やったから」

 おかんはまた照れたように笑った。なぜかおれも照れた。

「野球に一切関わらんと言っても、おかあちゃんの試合は観に来てくれた。ただ、自分が現役の時みたいに、アドバイスをしてくることはなかった。それは遠慮しているというより、結婚して夫婦になったことで、家庭にまで野球の話を持ち込むのはやめようという意思表示やったんやと思う」

「……」

「結婚してあんたが生まれた時は、おとうちゃん大喜びしてなぁ。もちろん、おかあちゃんもやけど。でも、あんたが野球に興味を持つまでは、無理やり野球をやらせたりするのはやめようって、どちらからともなく約束した」

「……」

「結局、あんたが野球に興味を持つ前に、逝ってしもたけど……」

「……」

 親父は、三十歳を目前に事故で死んでしまった。これからという時だった。ほとんど即死状態だったので、最期の言葉など遺していなかったが、グローブとボールを大切に押入れに仕舞っていた。いつかおれが野球に興味を持った時、使ってくれたら嬉しいと言っていたそうだ。

 親父の話をはじめてゆっくりと聞き、おれは不思議と力が漲ってくるのを感じていた。そして、やるからには、好きな野球をとことん突き詰めてやろうと思った。

 それにしても、おかんは偉い、改めてそう思った。それは、親父のことを美化して、良い部分ばかりをおれに言うのではなく、弱い部分や、カッコ悪いところも、隠さず教えてくれたからだ。

 おれはそれまで以上に野球に没頭した。試合のあった日は、おかんは腕と肩のマッサージをしてくれた。おれが、気持ちええわとおだてると、

「上手やろ。当たり前や。おとうちゃんにもしてたんや」

 と昔を思い出したような目で、それも嬉しそうな目をし、笑った。

 実際、おかんのマッサージは上手かった。疲労を溜めないためのマッサージというか、とてもリラックスできるマッサージだった。いつしかそれは試合の日だけでなく、日課となっていった。

 本当は、あの頃、おれがおかんにマッサージをしなければならなかったんだと、今になって思う。毎日仕事で疲れているのに、キャッチボールの相手をしてくれ、家事もこなした上、マッサージまでしてくれていたのだから……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る