二十六

 しばらく平凡で平穏な日々が続いた。おかんは週に二度か三度仕事に行き、おれは毎日公園へ行き、上半身のトレーニングをし、おかんをマッサージすることの繰り返しだった。バイトはしなかった。数ヵ月後には就職だ。嫌でもこの先何十年と働き続けなければならない。それに、おかんとこんな風に一緒に過ごすのも、働き始めたらできないことだからだ。

 指や手首の力もついたし、マッサージの腕も上がった。いや、そもそも、おかんの背中や腰は以前ほどカチカチではないため、その頃ほど力を要しない。だから、トレーニングなどする必要はないのだが、おれはついつい公園へと足を運んでしまうのだった。

 十一月に入ったこともあり、当然のことながら多少冷えこんでいる。落ち葉を踏む音が耳に心地良い。ガキの頃のように、おれはわざと落ち葉の上を歩き、その音を楽しんだ。

 キャッチボールをする少年たちの姿はない。シーズンオフになったのだろう。遊具で遊んでいる者もいない。おれは、誰もいない公園の鉄棒にぶら下がり、懸垂を繰り返す。十回までは準備運動で二十回を越えると懸垂をしているという実感を覚え、それはやがて惰性となり、五十回を越える頃になると、意地になったように上下運動を繰り返すことになる。

 何に対する意地なのかはおれ自身わからない。わからないが、そうせずにはいられなかった。確実に、おれは何かに苛立っていた。それなら懸垂をしなければいいと思うだろうが、しなければしないで、もっと苛々するのだ。

 懸垂を終え、土の上に着地する。と、ベンチの傍らに、少年たちが忘れていったのだろう、ボールがひとつ転がっていた。おれは近づき、拾い上げようとして、そしてやめた。次の瞬間には目を逸らしていた。

 

 そしてその日も、いつもの朝、のはずだった。だが、おかんの短い悲鳴で、眠気まなこのおれはトイレへ急いだ。

「どないした、おかん!」

 トイレのおかんが慌てたように水を流す。

「いや、別に何もない。便座上げたままで座ってしもたから、ちょっとびっくりしただけや」

「……そそっかしいな」

 おれは、下手な嘘だなと思いながら、トイレの前を離れた。

 トイレから出てきて、キッチンのテーブルについたおかんは、

「ゴメンな、起こしてしもたな」

 と頭を下げた。

「いや、おれも、もうそろそろ起きなアカンかったからちょうどよかった」

「ん? 何か用事でもあるんか?」

 いつもは昼近くまで寝ているため、おかんが不思議そうに訊いてくる。

「そろそろ仕事用のスーツでも買おかなって思ってな」

「ああ……そやな、そろそろ買わなアカンわな」

「うん。入社式は四月やけど、それまでに研修とか色々あるんや。入学式のスーツはブカブカやからな」

「あの頃のあんたはデブやったからな」

「デブにデブって言われたないわ」

「ほっとけ」

 おかんは、痩せたとはいえ、まだぽっちゃりとしている。おかんが痩せたことが気になってはいるものの、まだ丸い体型をしているからこそ言える冗談だった。

 そして、おれは言おうかどうしようか迷っていたことを口にした。

「ところで、おかん!」

「なんや、大きな声出して!」

「おかんはおれに、嘘はアカンって、ガキの頃から教えてきたわな?」

「……うん」

「おれが嘘ついたら、メチャクチャ怒ったわな?」

「……そやったかな」

 おかんがとぼける。

「そや。覚えてるはずや」

「まあ……覚えてる」

「ほな、おかんもおれには嘘つくなや!」

「……おかあちゃんが、嘘ついてるのわかったんか?」

「当たり前や。何年親子やってると思とんねん! 息子を舐めたらアカン」

「……そやな」

 おかんが覚悟を決めたように笑った。嬉しそうでもあった。

「で、どないしたん?」

「うん。実はさっき、茶色のおしっこが出たんや」

 明るい調子でおかんが言う。

「……茶色って……」

 不安になる。

「濃い茶色やった。おしっこに血が混じったらあんな感じになるんかな」

 おかんはまるで他人事のように言うが、おれの不安に拍車がかかった。 

「アカンがな、病院行かな」

「……今日は仕事あるし……面倒臭いなあ」

「アホか! 仕事行ってる場合か! 病院の方が大事やろ!」

「せやけど、今日は新入社員に研修せなアカンのや。あの子たちも期待に胸ふくらませて出社してくる。休むわけにはいかん」

「……」

 きっぱりと宣言するかのように言うおかんに、おれは言葉を返せなかった。

 自分のことはいつも最後、責任感が勝ってしまうのだ。

 それでもおれは言おうと思った。言わなければと思った。

「おかん……」

「しばらく様子見て、それでも調子悪かったら病院行くわ」

「おかん!」

「ん?」

「ええ加減にせえよ……」

 静かにおれは言った。

「なにがや?」

 おかんも静かに返してくる。

「自分の体のことは自分が一番ようわかってるはずや」

「……」

「おばちゃんも言うてた。あれは亡くなる直前やった。病気が発覚するずっと前から体の変調に気づいてたけど、店が忙しくて、面倒臭くて、検査には行かんかったって。それがアダになったって」

「……あんた、そんな縁起でもない」

「聞けや、おかん! それから、おばちゃんはこうも言うてた。検査に行くのが怖かったって」

「……」

「おかんも怖いんやろ?」

「……」

「怖いかもしれへんけど、検査行ったら安心する結果もらえるかもしれへんがな」

「……」

「背中痛いやろ? 腰も痛いやろ? 疲れやすいやろ? しんどいやろ? 頼むから検査行ってくれ。おしっこが茶色くなったんは、おかんに早く病院行けっていう警告を体が発しとんねん! おばちゃんが教えてくれてるのかもしれへん」

「……」

「おれが安心したいねん。おかん、二人だけの家族やぞ。おれにはおかんしかいてへんねや。おかん見てたら、明らかに前と違うのがわかるんや。ついこの前までバリバリ働いて、メシもガンガン食べてたのに、酒もメシの量も減ったし、痩せてきたし、背中や腰はカチカチやし……」

「……」

「そりゃ、長年、おれのためにがんばってきてくれたから、疲れが溜まって、多少体にガタがきたんかなと思ってたけど、でも、仕事減らしてもなかなか元に戻れへんし……」

「……」

「母親が息子のことを見ているのと同じように、息子も母親のこと見てるんや。心配してるんや!」

「……」

 じっとおれの顔を見ていたおかんがテーブルに目を落とす。その姿を目にした瞬間、おかんは老けた、そう思った。

「検査行ってくれ。正月に人間ドック入った時は、どこも悪くなかったんやろ? だから、もし、今回どっか悪くなってても、たいしたことないはずやがな! 早期発見ちゅうやつやろ?」

 おかんが頷く。

 おれは実際そう思っていた。茶色い尿が出たと聞いた時は、一瞬パニックになりかけたが、でも、一月の時点でどこにも異常が見られなかったのだから、もし、どこか病気になっていたとしても、まだ初期段階に違いないと。

 情報過多と言ってもいい現代では、嫌でも色々な情報が入ってくる。急に痩せる、背中が痛む、腰が痛む、食欲が落ちる、息切れがする……そのどれもが、大病の前兆、あるいは進行中の可能性があるとネットに出ていた。おれのような奴でも、その程度の知識があるのだから、おかんは当然理解しているはずだ。

 ただ、現代は、医療技術や薬の発達のおかげで、早期発見、早期治療によって、大病も克服できるらしい。

 おかんも、それが頭にあるのか、

「わかった。とりあえず今日、検査行ってくるわ」

 と言った。そして続けた。

「あんた……大人になったなあ」

「アホか、前から大人や!」

「図体だけはな」

 おれは何も言い返さず、苦笑した。

 おれは確かにガキだ。精神年齢の低さは自覚している。図体だけでかくて、心は幼稚だ。そしてそれを別に恥ずかしいとは思っていない。おれが大人になりすぎると、おかんが寂しがるに違いない。いや、それは冗談としても、おれがもっと歳をとり、仮に精神的に大人になったとしても、母親であるおかんは、いつまでもおれのことをガキ扱いするのだろう。母と子だから、それが当たり前なのだ。

 それは決して、不愉快なことではない。いや、確かに、中学生の頃は、自分が大人になったと思い込んでいたから、ガキ扱いされるのは気に入らなかったが、今はそうではない。それどころか、もしかしたら、おかんにガキ扱いされることを望んでいるのかもしれない。

「あんたにはおかあちゃんしかおらんって言ってくれたけど、おかあちゃんにもあんたしかいてへん。それは一緒や」

 おかんがポツリと言った。

「……」

 思わず涙が出そうになる。おれは、泣きそうな自分を誤魔化すように努めて明るく言った。

「おかん、検査ついて行こか?」

「アホ、そこまで耄碌してないわ!」

 おかんがケラケラと笑う。

「ほな、ちゃんと行けよ!」

「はいよ! あんたもスーツ、大きめ買いや!」

「アホ!」

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