二十七
就職するデパートで採寸し、その後、街をブラブラして自宅へ戻ると、検査を終えたおかんが帰宅していた。いつものようにソファに横になっている。
「おかん、どやった?」
努めて明るく訊く。意識してそうしている自分を客観的に見て、おれは大丈夫だと思いながらも不安になっている自分を知った。
「ああ、おかえり」
おかんがおれ以上に明るい声を出す。だが、起き上がるのがつらそうだ。
「あ、おかん、そのままでええで。検査は疲れるやろ?」
それでもおかんは体を起こした。
「尿検査と血液検査してきた。島田先生のとこ。明日には結果が出るみたい。というか、急ぎでやってくれるみたい」
「……そうか」
島田病院は、高校時代、バイク事故で負傷した膝のリハビリで世話になった。個人経営の病院で、ベッド数二十ほどの小さな病院だったが、総合病院であり、島田の腕も良く、患者のことを第一に考えてくれる。叔母も島田のことを信頼しており、最期は島田病院で迎えたいと言い、その通り島田病院のベッドで逝った。
「その結果によっては、明日また検査や。だから今夜はご飯抜きや。あんたの分は作っといたから、悪いけど一人で食べて」
「そうか……ええのに。でも、おおきに!」
キッチンを振り返る。途端、カレーの匂いが漂ってきた。今日も好物のおかんカレーだ。今までその匂いに気づかなかった。それほど、おれは不安に想っていたのだろうか。
「ほな、風呂入ってからいただくわ」
おかんは頷き、またソファに横になった。
風呂から上がると、おかんは規則正しい寝息を立て、眠っていた。
カレーを温めなおそうと、ガスのスイッチをひねる。
「!」
だが、すぐにスイッチを切っていた。カレーがすぐに沸騰したからだ。おかんは、おれが風呂から上がる頃合を見計らい、温めなおしてくれていたのだ。
「おかん……おおきに」
おれはおかんの背中に向かって呟くと、カレー皿に少し柔らかめのご飯をよそう。おかんは、カレーの時はご飯を柔らかめに炊く。その方が、カレーに馴染みやすく、カレーとご飯が一体化するからだとある時説明してくれた。それを聞いてからというもの、おれは外でカレーを食べられなくなった。名店と言われる店ですら、ご飯にまで気を遣っていないからだ。客に炊きたてのご飯を出せないのは仕方ないにしても、おかんのカレーの味を知ってからは、カレーとご飯が分離した、つまり喧嘩したカレーライスは食べられなくなったのだ。
それに、こんなごった煮のカレーを出す店などない。おれにとっては、おかんの、このごった煮カレーこそが、真のカレーなのだ。
柔らかめに炊いたご飯の上にルーをかける。カレーとご飯を混ぜ合わせることなく、スプーンの上に五対五の割合で載せ、口に運ぶ。
「美味いわ……おかん」
なぜか涙が出てきた。
「なに泣いとんねん!」
そう呟くと、おれはもっと泣けてきた。
おかんは思ったより重い病気だった。
いや、かなりひどい状態だった。
その日、おれは検査に付き添っていた。
尿検査、血液検査の結果、入院してMRI、エコー、CTと立て続けの検査を受けることになった。
検査の間、おれは病院の廊下でそれが終わるのを待った。
検査自体はあっという間だったが、そこから島田に呼ばれるまでが長かった。病室へ行くと、検査に疲れたのか、おかんが眠っていた。穏やかな寝顔だった。穏やかだが、疲れが目立った。検査の疲れというより、長年の疲れが表情に出ているようだった。
ドアがノックされ、島田が顔を覗かせる。
「カズ、ちょっと……」
「……」
いつからか、島田の顔を見ると、ホッと安心するというか、癒しに近い感覚を覚えるようになっていた。だが、今は違った。島田の表情に緊張の色が滲み出ていたからだ。医師としての本能だろうか、それを必死に押し隠そうとしているが、完全に隠れてはいない。それほど島田の心は揺れていた。珍しいことだ。人間味のある医師だが、ポーカーフェイスなどお手のものの島田が動揺している。
それがおれにも伝染する。
音を立てずに病室のドアを閉めたおれを、島田は診察室ではなく、二階のプライベートルームに案内した。
プライベートルームといっても、テーブルに椅子が四脚、そして歯抜けだらけの本棚があるだけの部屋だった。八畳といったところか。
「何もないやろ? 何もないからこそ落ち着くんや。ワシの隠れ家や」
島田が明るい調子で言う。しかし、それとは裏腹に、おれは気が気でなかった。
黙り込むおれに、島田は居住まいを正し、単刀直入に言った。
「膵臓癌や。ステージⅣ」
「……はぁ?」
呆けたような声を出してしまったと自覚したが、おれはまさに呆けていた。島田が何を言っているのか、大袈裟ではなく理解できなかった。いや、正確には、癌という単語は耳に残っていたが、それがおかんのことだとは理解できなかった。いや、理解したくなかった。こんなおれでも、ステージⅣは末期だということくらいはわかる。
「カズ……よく聞け。おまえのおかんは、膵臓癌で、ステージⅣまで進行している」
よほど呆けた顔をしていたのだろう、島田が言い含めるようにして再び説明してくれる。
おれは島田の顔を凝視した。
今にも島田が、「冗談や、冗談!」と言いだしそうで、そしてそれを期待し、おれは島田の顔を凝視し続けた。
だが、儚い望みだった。
「何でもかんでも切るのは好きやないけど……でも、ワシはオペをしたいと思う」
「……」
呆気に取られるおれを置き去りにし、島田がどんどん話を進める。
「医者がこんなこと言うたらアカンのかもしれへんけど、膵臓癌のオペは難しい。難しいというか、オペできひん場合がほとんどや。だから、おまえのおかんの場合も、開腹してみなわからん部分もある」
「……」
「おい、カズ、しっかりせい!」
「……は、はい」
おれはまだ信じられず、島田にあたるように言葉を吐いていた。
「せやけど、先生、正月の検査ではどこも悪なかったんやで! それがなんで癌やねん! それにステージⅣて……Ⅳいうたら……末期やないか!」
「……」
「もう手遅れなんか、先生? 膵臓癌は手術できひんケースがほとんどて聞いたことがある。もしそうなったらおかんは……」
「アホ! 身内のおまえが、それも唯一の身内のおまえが手遅れなんて言うな!」
島田が怒鳴る。
「それに、もしオペできんかっても、方法は色々ある」
「……」
様々な想いが交錯する。
数ヶ月前から、おかんは背中が痛いとか、腰がだるいと言っていた。そしておれは、おかんの背中や腰をマッサージしてきた。さすがにどこか悪いのではないかと思い、病院での検査を勧めた。その度おかんは、正月の人間ドックでどこも悪くなかったんやから大丈夫やと言い、検査に行かなかった。
おれがもっと強く言っていれば、ここまで病状は進まなかったのではないだろうか。
「!」
おかんが叔母の話をする時、いつも言うセリフが脳裏を駆ける。「一緒に暮らしてたら、病気に気づいてやれたかも」。その言葉が今、おれに突き刺さってきた。
おれは、おかんと一緒に暮らしていて、そして最近は一緒にいる時間が長くて……マッサージという方法で実際に体に触れてもいた。それなのに、病気に気づいてやれなかった。いや、薄々感じてはいた。気になってもいた。しかし、強く検査を勧めたわけではなかった。
それにしても、おかんはなぜあれほど頑なに検査に行くことを拒んだのか。痛みが出た時点で、手遅れだと思ったのか。
あの我慢強いおかんが痛みを訴えたり、しんどそうな態度を見せるということは、相当な痛みとつらさが襲っていたはずだ。
おれはなぜもっと強く検査を勧めなかったのか……。
「自分を責めてるんか?」
島田がおれの心を見透かしたかのように言う。
「……」
「正月の人間ドックでどこも異常なかったんは事実やと思う。もちろん膵臓癌は見つけにくい癌やということもあるけど、もしワシが診てても、健康体やという診断を下したやろう」
「……」
「人間ドックの後、自覚症状のないまま病気は進行したんや。膵臓癌はそんなもんなんや」
「……おかんが痛みを感じ出した頃はもう……」
「かなり進んでたということや」
「……」
「だから自分を責めるな。後悔ばっかりしてても仕方ない。そんな暇ないぞ。これからのことを考えよう。ワシはさっきも言うたけど、オペをしたいと思ってる。ほとんどの医者は、オペをせんと思う。リスクが大きすぎるからな。せやけど、オペをせんと、延命治療だけをするのは逃げやと思う。負けやと思う。オペをせんことには、治るもんも治らん。もちろん、本人の意思は尊重するけどな」
「……」
熱い男だ。改めて思った。そしてやさしい。おかんを身内のように想ってくれている。
「先生にまかせます」
島田は頷いた。
「ところで、カズ、病気のことやけど……」
「おれに告知させてください」
即座に答えていた。
「そうか」
島田が微かに笑う。
「おかんも薄々気づいてるやろうし……それに、嘘ついたらどやされる。嘘はつかない、それがおかんとおれとの間の大切なルールなんや」
「うん、そやな。おまえならそう言うと思ってた」
島田が笑顔で言う。おれはその笑顔に勇気をもらった気がした。
病室へ行くと、おかんが目を覚ましていた。まるで、おれからの宣告を待っているように。
「おかん……」
さすがに言いよどんでしまう。一瞬、ほんの一瞬黙り込んでしまったおれに、まるで助け舟を出すかのようにおかんが口を開いた。
「癌やろ? どこやった? おねえちゃんと同じ肝臓か?」
「!」
咄嗟に何も答えられなかった。
不意に涙が溢れ出す。
おかんは強い。そしてやさしい。
告知するのはつらいだろうと、先に自分から言ってくれた。
「すまん……おかん……」
「アホやな、なんであやまるん?」
おかんが体を起こす。
「……」
おかんにとっておれはいつまでもガキだが、泣きじゃくるおれは幼い子供のようにおかんの目に映っているのだろう。おれの肩に手を置き、
「なに泣いてるんや」
と肩を揺さぶる。
おかんに、こんなふうにされたのはいつ以来だろう。
「すまん、おかん……」
おれは涙を拭い、おかんに向き合った。
おかんが肩から手を離し、おれに笑顔を向ける。その笑顔に向かって言った。
「おかん……膵臓癌や。ステージⅣや」
一気に言った。一気に言うことしかできなかった。
「そうか、やっぱり膵臓か……」
おかんが笑顔のまま呟く。
「やっぱりって……気づいてたんか?」
「多分そうかなって。正月の段階ではどこも悪くなかったのに、ここへきて色々な症状が出てきて……で、もうステージⅣやろ? 知らん間にどんどん進行するのが膵臓癌やってネットに書いてた」
「……」
やはり、おかんは病気のことを調べていた。
「それで、おかあちゃん、助かるんか?」
おかんが努めて明るく訊いてくる。不安の裏返しだろう。
おれは正直に答えた。
「先生はオペをしたいって言うてた。実際、開けてみんとわからん部分も多いらしいけど……オペせんことには、治るもんも治らへんって」
「そうか……ほな、手術お願いしよか」
おかんはあっさり言った。島田に全幅の信頼を置いている証拠だ。そして、何もせずにただ延命治療をすることは性格上、許せないのだろう。
「わかった。先生呼んでくる」
まるで、一刻も早く島田におかんの意思を伝えなければ、どんどん病状はひどくなるという強迫観念のようなものに苛まれ、おれは慌てて病室を出た。
ドアを閉めた瞬間、部屋の中から衣擦れの音が聞こえてきた。一瞬足を止める。
「!」
おれの耳に、おかんのすすり泣く声が入ってきた。
「おかん……」
視界が涙で霞んだ。
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