二十八
診断からわずか三週間でオペが行われた。平均は二、三ヶ月らしいから異例の早さだ。もちろん懇意にしている島田が便宜を図ってくれたこともあるが、それくらい緊急性を要していたということだろう。
手術までにおれが仕入れた情報によると、膵臓癌は、癌の王様と呼ばれているらしい。発見された時は大体手遅れで、あちこち転移しているケースがほとんどだそうだ。発見された時点で余命一年、転移があるケースで余命半年というのが一般的なデータだった。余計な情報を仕入れてしまったと後悔したが、現実を見据えるのも必要だと思い直した。それに、データはあくまでデータだ。
野球をやっていた頃、やけにデータを重んじる監督がいた。このバッターは内角が強いから近めには投げるなと言われた。もちろんおれは、そんな指示には従わず、相手の得意なコースに投げて勝負した。そして、勝ってきた。だから、データなんてあくまでデータであり、百パーセントではないのだ。おれはそう自分に言い聞かせた。
おれは手術室の前の廊下で待っていた。まるで映画かドラマのシーンのように。ベンチに座っているとなぜか落ち着かず、ずっと立ちっぱなしだった。
途中、島田が一旦出てきた。
「カズ……思ったよりひどい状態や」
手術着を着たままの島田の鬼気迫る表情に圧される。手術着には血が飛び散っていた。乾いてどす黒く変色している。それに凄みを感じた。
島田も、そしておかんも、壮絶な闘いの真っ只中にいるのだ。おれは、何もできない自分が、待つことしかできない事実が悔しかった。
「胃と、十二指腸、それから脾臓に転移してる。全摘することになると思う」
「……」
胃?
十二指腸?
脾臓?
全摘?
パニックに陥りかけた脳に容赦なく島田の言葉が入ってくる。
「それから、膵臓はやっぱりメス入れるのは無理や」
「!」
「メス入れるのは無理やけど、直接、放射線を照射する」
「……はい」
短期間で詰め込んだ知識を呼び起こす。
確か、膵臓は、胃や肝臓などの臓器に隠れた臓器であるために、体の外から放射線を照射しようとしても、それらの臓器に邪魔され、なかなか効果が上がらないと。ただ、手術時に開腹し、照射を行う直接照射は効果が見られると書いてあった。
しかし、それにしても……胃と十二指腸、脾臓を全摘とは……。おかんがボロボロになる。大切なものが少しずつ削り取られていくような気持ちになった。心臓のあたりがチクチク痛んだ。
「オペが無事終わっても、それからが大変やけど、どうする?」
「……どうするって……そのまま閉じたらおかんは?」
「二ヶ月やな……」
「二ヶ月……」
年を越せないということだ。おれが社会人になった姿を拝むことなくおかんは逝ってしまう。
おれはすぐに決断した。おれが決めてもいいのかという気持ちにもなったが、おかんも、ボロボロになっても生きる道を選ぶだろうと思ったのだ。
それにおかんも言ってくれた。おかんにはおれしかいないと。そして、おれにもおかんしかいない。
「先生、オペ続けてください。助かる可能性がある限り」
「わかった。そう言うと思ってた。一応確認に来ただけや」
島田が笑う。
「先生……」
「逃げずに勝負することを、おまえのおかんも望んでいるはずやからな」
頷いた。
おかんの言葉を思い出す。
『逃げるくらいなら負けといで!』
おかんも今、そう思っているはずだ。どんな結果が待っていようとも、闘わずして逃げたくはないと。そして、必ず勝つと思っているはずだ。
「ほな、オペの続きしてくるわ」
島田が、まるでテレビの続きを観にいくような態度で、足取り軽く去っていく。
その背中におれは頭を下げた。
オペが終わった。十四時間の長丁場だった。
十二指腸と脾臓は全摘せざるを得なかったが、しかし、胃は半分切っただけですんだ。島田の腕のおかげだ。
膵臓への放射線の照射もうまくいったようだ。
術後、おかんは十二時間眠り続けた。十四時間の手術時間と合わせると、丸々一日眠り続けたことになる。強い麻酔と疲れのせいだと島田は言い、「よう頑張った証拠や」と笑った。
おれはその通りだと思い、おかんの額の汗を拭った。そうしていると、不思議なことに、おかんが我が子のように思えてきた。もちろん子供など持ったことはないが、なぜかそう思えた。
おれは二日間眠っていなかったが、肉体的な疲れはなかった。そして、不思議と精神的にも楽だった。というか、ハイだった。それは、徹夜明けによく見られるハイテンションとは少し種類が違った。手術がうまくいったことで精神的な疲れが吹っ飛んだ結果、ハイになっているということだろう。
「カズ、三日もしたら退院してええぞ」
「えっ? そんなに早く?」
「なんや、嫌なんか?」
島田がいたずらっ子のように笑う。
「まさか! でも、大丈夫なんですか?」
「大丈夫なように手術したんやないか」
島田が再び笑う。
「ありがとうございます!」
頭を下げた。
「しばらくは流動食やけどな。それは病院から薬と一緒に出す」
「はい」
「ただし、ちょっとでも調子悪くなったら連れてこいよ」
「はい」
「自慢のパワーで担いでこい!」
「はい!」
「おまえ、さっきから『はい』しか言うてないぞ!」
「はい!」
島田が声に出して笑う。
「おっ! お目覚めやぞ」
「!」
振り返ると、おかんが目を開け、せわしなく黒目を動かしていた。
「おかん!」
嬉しくて思わず大声を出してしまった。
まるで、迷子になった子供が母親を見つけた時のような気持ちになっていた。同時に、幼い頃、叔母の家に預けられていたおれをおかんが迎えに来てくれた時のことを思い出していた。
おかんが何か言いたそうだ。だが、酸素マスクが邪魔で言葉にならない。両手には点滴の針が刺さっており、動かせない。
「ちょっとおもろいな」
おれは、冗談が言えるようになった自分にホッとしながら、島田を振り返る。島田は黙ったまま頷いた。
酸素マスクを外してやる。
「二人の声が大きいから目ぇ覚めたわ」
おかんが笑いながら言う。だが、すぐに顔を顰めた。
「痛たたたたたた」
「ん? どないしたんや?」
「手術の傷跡が痛むんやろ。なあ?」
島田の言葉におかんは頷き、
「先生、ほんま、ありがとうございました」
と横になったまま頭を下げた。
「いやあ、よう頑張ったなあ、十四時間やで、十四時間! こんなに長いのはじめてや。ワシの方が倒れそうやったわ」
「え? そんなに? 寝てたからわかりませんでしたわ」
病室が笑いに包まれる。
ひとしきり笑った後、島田は真剣な表情になり、詳しい手術結果を説明した。おかんは神妙な顔で聞いていたが、島田が話し終えると、ひとまずホッとしたような表情を見せた。
「やるだけのことというか、やるべきことはやった。今後は抗癌剤を投与する。膵臓にはまだ癌細胞が居座ってるわけやからな。そういう意味では、これからがほんまの勝負や。でも、一番大事なのは、生きようとする前向きな想いなんや。まあ、それは心配してないけどな。こんな息子がおったら心配で、死ぬに死なれへんわな」
「はい、もうそのとおりですわ」
おかんが笑う。そして、また顔を顰める。
「なんやねん、おかんまで! くそっ! 仕返しに傷がくっつかんように笑わしまくったろか!」
「アホ、あんたは何もせんでも行動がおもしろいんやから、それ以上何もせんといて」
おかんは笑い、そしてまた顔を顰めた。
「そうやって笑てたら、長生きするわ」
「おっ、たまにはええこと言うやないか!」
島田がおれの背中をドンと叩く。
「たまにはって」
「笑うことはええことなんや。病は気からって言うけど、あれはほんまのことなんや。笑えばストレスは溜まらん。ストレスが溜まったら、血が汚れて、血が逆流して……ま、それはええか、そんな心配なさそうやからな」
島田が笑いながら病室を出ていく。
二人になると、おかんはしばらくじっと天井を見つめていた。何かを考えているようだった。だからおれは話しかけなかった。長い闘いを終え、色々思うこともあるのだろう。それに、本当の闘いはこれからだ。
やがておかんは黙ったまま目を閉じると、そのまま静かに寝息を立て始めた。
「そら疲れるわな……おやすみ、おかん」
おれは、いつまでもおかんの寝顔を眺めていた。
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