二十九
おかんの体調と相談し、退院したのは結局術後五日経ってからだった。それでも驚異的な早さだそうだ。
五日ぶりに戻る自宅は、たとえそれが築二十五年の公団住宅の一室であっても、やはりホッとするのか、おかんは嬉しそうだった。
ただ、手術の影響で、以前のように普通に歩くことができず、家の中でも杖をついて歩かなければならなかった。
「胃が半分になったせいか、食欲ないわ」
おかんはそう言って笑い話にしているが、術後まだ五日、食欲がないのは当然だろう。
だがおれは、病院から出された一キロほどの流動食を、一日三回に分けて食べさせる、というか飲ませる。
レトルト容器の中身は、白粥のような液状のものだった。
「うわっ、なんやこれ。見た目だけでももっと美味そうにしたらええのにな」
「まあ、そう言いな。ありがたいがな。昨日までは点滴で栄養摂ってたんやから」
「まあな」
おれはそれを皿にあけると、スプーンで掬い、おかんの口に運ぼうとした。
「なにしてるんや、あんた!」
「えっ?」
おかんが軽く睨んでいる。
「自分で食べられるわ!」
「……そうか」
おれは申し訳ないと思った。おかんを病人扱い、もちろん病人なのだが、つい上から見下ろすような態度を取ってしまった自分に腹が立った。
おかんはソファに座ると、期待感いっぱいの顔で、スプーンをゆっくりゆっくり口元へ運んでいった。そして、まるでブランデーを味わうように、舌の上で転がしている。
結構流動食を楽しんでいるなと思った瞬間、
「味せえへんわ」
と顔を顰めた。
「一口ちょうだい!」
その味に興味を持ったおれは一口もらった。
「……」
確かに味はしなかった。味が薄いというレベルではなく、ほとんど味がしない。これではストレスが溜まり、体に良くないかもしれない。だから言った。
「りんご買ってきたんや。擂ろか? りんごは食べてもええって言うてたから」
「ありがとう。でも、ええわ」
「……そうか」
「うん。こんなん病気が治ったら食べられへんからな。病気のうちに食べとかんと。何でも経験や。楽しまなアカン」
「……」
楽しむ……おかんにかかれば、病気も流動食も楽しむ対象になってしまう。
おれは、「おかんのことば」を思い出した。
『人生楽しまな損、人生すべて遊び』
おかんの口癖だ。
もちろん、人生を舐めているという意味ではなく、つらいことや苦しいこと、どんなことに対しても逃げずに真正面から向き合い、それを楽しんでこそ人生という意味だ。
おかんのモットーだ。
おかんはゆっくりゆっくり、流動食を喉に流し込んでいく。そこにかつての豪快さはなかった。だが、ゆっくりゆっくり口にスプーンを運ぶ様は、生きている実感を噛み締めているように見えた。
食べ終えるとおかんは横になり、そのまま眠ってしまった。
翌日から、本格的な治療が始まった。
抗癌剤の投与だ。それまでも、錠剤の抗癌剤を服用してはいたが、今後は週に一度、点滴による抗癌剤の投与を受ける。もちろん、島田病院の処置室でだ。
タクシーで行こうと言うおれを制し、おかんは杖をついて歩き出す。
「リハビリや、リハビリ」
と笑いながら歩き出すが、足元が覚束ず、つらそうだった。当然だ。十時間の大手術からまだ一週間も経っていないのだから……。それに、まだ癌は体に巣食い、こうしている間にも、細胞を蝕もうとしているのだから……。
「おかん、無理するなよ」
「無理できるうちは無理するんや」
おかんがカラカラと笑う。
おれは黙っておかんのあとをついていく。
病院まで、本来なら徒歩十分で到着するはずが、三十分かかった。病院に着くと、おかんは汗だくだった。それは、脂汗のようだった。
島田は処置室として、個室を提供してくれた。ジェムザールという抗癌剤を三十分かけて体内に投与する。
ベッドに横になり、血液中に抗癌剤が入っていく度、おかんは顔を顰めた。
「どないしたん? 痛いんか?」
「うん……なんやろ、これ」
島田が言う。
「慣れるまでは痛いと思う。抗癌剤は体内に入っていく時、どうしても痛みが伴うんや」
「きついからですか?」
「そうやな……」
「それで安心しました。なんか、感じたことのない痛みやったから、心配になりましたわ」
体内に液体が入っていく時に感じる痛み。おかんに言わせると、それは本当に今までに感じたことのない痛みで、まるで点滴の針の中にもう一本針があって、ピストンのように血管を刺激してくるような感じだそうだ。
点滴の針が刺さったおかんの左腕を見る。
「!」
細くなった。毎日重い鞄を持ち、営業活動をし、そして、おれとキャッチボールをしていた頃のおかんの腕は丸太のようだった。
いや、それを言うなら、体もそうだ。ベッドに横たわるおかんは、また一段と痩せていた。かつて島田に肥満を注意され、生活指導されていた頃の面影はもうない。手術をしてからまた痩せたような気がする。手術をする前はまだぽっちゃりしていた。
痛みに慣れたのか、それとも、抗癌剤が眠気を誘発したのか、おかんは二十分を過ぎたあたりで目を閉じ、そのまま眠ってしまった。
おれは、抗癌剤の投与を受ける、いや、闘うおかんを見つめ続けた。
それから十分ほどで投与は終わったのだが、島田の厚意もあり、おかんをそのまま寝かせておいた。疲れもあったのだろう、おかんは結局、二時間眠り続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます