三十
すぐに副作用は出た。話には聞いていたが、それは、時と場所を選ばず、突然おかんに襲いかかる。
病院からの帰り道、突然おかんが言い出す。
「ここ、どこや?」
またある時は、何度も後ろを振り返り、不安そうな表情を見せる。不審に思って訊くと、「今、誰か後ろにおらんかった?」と言う。何かに怯えた顔で……。もちろん誰もいない。
前から走ってくる自転車に小さく悲鳴を上げ、怖れることもあった。
自宅へ戻ったら戻ったで、吐気や、時には嘔吐、眩暈、頭痛に悩まされる。
それでもおかんは、生きるために、流動食を飲み込むように食べ、錠剤の抗癌剤を服用する。時には痛み止めも。
見ているのがつらかった。目を逸らしてはいけないと思うのだが、おれは、嘔吐するおかんの背中をさすりながら、目を逸らし、涙を流した。
生きるとは、こんなにもつらいことなのか。しんどいことなのか。おれは考えさせられた。こんな想いをしてまで生きなければならないのかと。
そんなおれに、おかんは、生きることは楽なことではない、大変なことなんやと、その背中で教えてくれているかのようだった。
それでもおかんは言い続けた。「人生、全部遊びや」と。
そんな、耐えているおかんに、思わず、「がんばれ!」と声をかけそうになったが、こらえた。
おかんはすでにがんばっている。
病人に、がんばれという声をかけるのはご法度だというが、そういう次元ではなく、すでにがんばっているおかんにそういった声をかけるのは間違いだ。病人だからどうではなく、がんばっている人間にがんばれと声をかけることこそご法度なのだ。
おれがかつて膝のリハビリを受けている時もそうだった。おかんは一度もがんばれとは言わなかった。サボれば怒ったが、リハビリをしている最中は、がんばれとは言わなかった。「がんばれ言うな、がんばっとんねん!」と言い返すと思ったのだろうか。
がんばれと言わないかわりに、おれは漢方をおかんにプレゼントした。島田に相談し、処方してもらったのだ。
医師には新薬崇拝者が多く、漢方に嫌悪感を示す者が多いと聞いていたが、島田はそういったことはなかった。むしろ、漢方の力を信じていた。
島田は、若い頃に妻を癌で亡くしていた。癌が発症した際、島田は妻をベッドに縛りつけるようにし、ありとあらゆる新薬を投与した。新しい薬の認可が下りるや、それを試しもした。妻も若かったので、当然それだけ進行も早く、何とかそれを食い止めたい、助けたい一心での行動だったのだが、結局それが裏目に出た。
妻は日に日に衰えていった。癌の進行はもちろん、寝たきりという過大なストレスが妻の心を蝕み、病気に悪影響を与えたのだ。
島田がそれに気づいた時にはもう手遅れだった。妻は何も言わず、抗議もせず、笑顔でこの世を去ったそうだ。
やりたいこともさせてやれず、ベッドにくくりつけたまま最期の時を過ごさせてしまったことを島田は後悔した。そしてその後悔は、決して消えることのない後悔だった。新薬にこだわり、やれることは全てやったと思い込んでいた自分を恨んだ。
それは勝手な思い込みだったと島田は気づいたのだ。自分は、やれることは何ひとつやっていなかったと。
妻の心のケアを考えず、その意思を尊重しなかった自分が情けなかったと島田は言ったことがある。
だからこそ、それ以降の島田は、新薬だけに頼らず、患者の心のケアを第一に考えるようになった。本当の意味で、できることをすべてやろうという考え方に変わっていったのだ。人間医師・島田の誕生の瞬間だった。
それは、漢方に対しても同様だった。それまでは否定的だったが、一切そういったことはなくなったのだ。
だから、おれが漢方の話を島田にした時も、
「普通、医者は、積極的に患者に漢方を勧めない。患者が医者に対して不信感を抱くからな。それに不安を覚える。自分にはもう新薬が効かないのかと。だから、漢方がいいと理解してはいても、医者という人種はなかなかそれを患者に勧めない。でも、ワシは違う。ええもんはええって言う。漢方は副作用を緩和する力もあるからな」
と言い、保険扱いにしてくれた。
そのおかげで、かなり割安になったが、それでも漢方は高く、おれが今までに貯めたバイト代はあっという間に消えていった。
それでもおれは満足だった。生まれてはじめておかんの役に立てたような気がしていた。
抗癌剤などの費用は、癌保険に加入していたため、それで賄うことができた。保険の外交員をしていたことや、夫、つまり親父を突然亡くしたことから、万が一の時のための備えを怠ってはならないという想いがあり、おかんは幾つもの保険に加入していた。
それと、不肖の息子であるおれが路頭に迷わないためだったのかもしれない。
副作用が出るのは、抗癌剤が体内に行き渡り、効果を発揮している証拠でもあると、島田は言ったが、治療を受ければ受けるほど、吐気や眩暈、頭痛はひどくなっていった。時にわけもなく怒り出したり、苛々したりもした。
ただ、漢方のおかげか、記憶が飛んだり、道がわからなくなったりすることは少なくなっていった。
副作用が出ていない時のおかんは、以前のおかんそのままだった。
頬がこけ、ひと回り体が小さくなった事実は、おかんは病気なのだと改めて思い知らされたが、手術前より顔色も良く、知らない者が見れば、おかんが癌患者だとは誰も思わないだろう。
会社には、おかんの病気のことは隠していた。おかんの希望だった。同僚に心配をかけたくないという配慮からだった。だから、少し体調を崩しているので、しばらく休むとだけ伝えていた。それでも、同僚たちが見舞いのためにひっきりなしに自宅を訪れた。おかんの顧客が訪れることもあった。
客たちは、おかんを見ても大きな病気だとは気づかなかった。おかんも客の前ではシャンとするからだ。皆一様に、「元気そうじゃないですか! そろそろ復帰してくださいね!」と言った。「ダイエット大成功じゃないですか」と言う者もいた。おかんがかねてより「ダイエットしてるねん」とでも言っていたのだろう。
おかんは、特に体調が良い時は手料理を作ってくれ、テーブルで向かい合って食べた。おかんはまだ流動食だったが、それを除けば、病気が発覚する前と全く同じ光景だった。
おれは、おかんカレーが食べたくて、色々な食材を大量に買い込んだ。買物と食事の用意(と言っても、おかんは流動食のため、自分のための食事の用意なのだが……)は、おれの仕事だったから、おれはわざと食材を余らせ、おかんにカレーを作ってもらった。
おかんと向かい合って食事できることが嬉しく、ついつい饒舌になるおれに、
「あんた、口ばっかり動かさんと、箸も動かしや」
と幼稚園児を叱るようなセリフを言ったと思えば、今度はおかずばかり食べるおれに、「ご飯とおかず、交互に食べや」と、これまた幼稚園児を叱るように言う。
昔に、それも遠い昔に戻ったようで、おれは楽しかった。
そんなある日、ふと思い出した。
「そや、スーツができあがってるわ。取りに行かなアカンわ」
そして、おれは何気なく言った。
「おかんも一緒に行こか?」
「……ええけど」
おかんの顔が一瞬曇る。デパートのような人の多い場所へ出るには、まだ体力が回復していないのだろうと思い、
「いや、やっぱりええわ。おかんと一緒に行ったら、『そんなんカッコ悪い。交換してもらい!』って言いそうやからな。オーダーメイドやのに」
とニヤニヤしながら言った。
「アホ、そんなこと言わへんわ。それより、あんたのセンスが問題や。おかあちゃん言わへんかったけど、あんた学校にチェックのシャツにチェックのズボンでよう行ってたやろ? お気に入りの組み合わせか何か知らんけど」
「おう、行ってたで。おれの一張羅やないか!」
「あんた……あれ、カッコ悪かったで!」
「えっ? ほんまか? なんでや? カッコええと思ってたけど」
「アホ! チェックにチェックて……今日び漫才師でもそんなコーディネートせえへんわ!」
「……ほんまか……でも、まあ個性やがな!」
「そんなん個性って言わへん。野暮って言うんや!」
「……そうか」
おかんは情けないというふうに首を振った。
「そんなことより、おかん、早く元気になって、おれの初任給で温泉行かなアカンなあ」
「……そやな、春には元気にならなアカンな……」
おかんが遠くを見るような目になる。そんな目をするおかんが寂しそうに見え、そしておれ自身も寂しくなり、不安になり、一層饒舌になる。
「そや、この前の検査では、癌細胞には変化はなかったけど、転移もなくて良好やって言うてたがな。この段階で現状を維持してることが素晴らしいことやって。もうすぐ流動食ともサヨナラやろ?」
「うん、先生はそう言うてはった」
「漢方が体に合ってよかったな。中には体が漢方を受け付けずに、体中に湿疹が出たり、副作用がひどくなる人もおるらしいからな」
「うん……」
それでも、おかんの表情は冴えない。
実際、検査の結果、転移もなく、半分摘出した胃や、その他の臓器も正常に機能していた。癌細胞に変化はないが、大きくなっていないことが素晴らしいことだと島田は言っていた。顔色も良い。だが、おかんの表情は冴えない。
膵臓癌は一般に、それが発覚した時は大体が手遅れで、転移があった場合、余命は半年、あるいはそれ以下だと言われている。だが、おれは、おかんはその「一般論」に当てはまらないと思い始めていた。手術してまだひと月足らずだが、抗癌剤と漢方の効き目があるのか、おかんの顔色は良く、副作用に悩まされることはあっても、それがない時は元気だったし、何より生きようとしている。
島田は、薬や治療も大切だが、一番大切なのは、患者の生きようとする気持ちだと言っていた。「病は気から」という諺があるが、まさにその通りだと。島田はこうも言った。近い将来に目標というか、目的、あるいは楽しみを設定することも大切だと。そうすることにより、生きようとする気力が湧き、実際に余命が延びたり、癌が消えたりしたケースも数多くあるらしい。
逆に、最高の治療を受けていても、本人の気持ちが沈んでいたり、生きる気力をなくしていると、病状は悪化の一途を辿るそうだ。ストレスというのは怖く、血を濁らせ、停滞させ、新たな病気を誘発するらしい。
おれは島田に、初任給で温泉に行く計画をおかんと立てているという話をした。島田は、それはいいことだと言ってくれた。そして、温泉に行くことができたら、また次の計画を立てればいいと言ってくれた。
ただ、おかんは温泉の話をしても、あまり気乗りしていないようで、それが少し気がかりだった。おれは、温泉では役不足なのかと考え、おかんが何か楽しみにできることはないかと考え始めた。
そんなある日、おかんが冴えない表情でポツリと言った。
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