三十一

「あんた……春からの仕事やけどな……ほんまにそれでええんか?」

「え?」

 一体何を言うのかと、おかんの顔をポカンと見るおれに、

「だから、その春からの仕事……デパートの仕事は、あんたの好きなことなんか?」

「……好きかどうかはやってみんことには……まだ配属先も何も決まってないしな」

 戸惑いながら答える。

「ほな、言い方変えるわ。その仕事、配属先はまだわからんかもしれへんけど、そのデパートでの仕事、あんたがほんまにやりたいことなんか?」

「……」

 すぐには何も答えられず、

「なんや一体! おかんはおれの仕事が不満なんかいな?」

 と逆に訊いていた。

 おかんは何も答えなかった。ただ、寂しそうに笑っただけだった。

 大学の四年間をおれは適当に過ごした。まさに文字通り、典型的な適当学生だった。

 元々大学に進むつもりなどなかった。無事、高校の課程を終えたおれに、おかんが言ったのだ。「今、やりたいことがないんやったら、とりあえず、大学行っとき!」と。そして、「大学で何か見つけたらええがな」とも。

 おれは最初、気が進まなかった。勉強が大嫌いだったし、何を勉強していいかわからなかったし、大学に行っても何も見つけられそうになかったからだ。だが、おれは進学した。おかんがおれに、人生の猶予をくれようとしていることがわかったし、それに甘えてみようと思ったからだ。

 高校時代、勉強など全くしなかったおれだったから、入れる大学は限られていた。そのうちのひとつに進学したおれだったが、結局何も見つけられなかった。

 いや、おれが探そうとしなかっただけなのかもしれない。一応毎日学校へ行ってはいたが、サークルに参加するわけでもなく、ボランティア活動に勤しむわけでもなく、一生懸命勉強するわけでも研究活動に励むわけでもなかった。

 そして、サラリーマンとして働いている自分がイメージできないのに、まわりがするからと、同じように就職活動をし、やりたい仕事でもないのに最初に採用をもらった企業を就職先に選んだ。

 もちろん、現代は、転職や起業が当たり前の世の中だから、最初に入る会社にそれほど重い意味があるとは思えない。

 ただ、おかんに、「ほんまにそれでええんか?」とか、「やりたいことなんか?」と訊かれると、おれ自身、不安というか、迷いのようなものに襲われた。おかんがそんな質問をするまで抱かなかった感情だ。

 そして、おかんの寂しそうな表情も気になった。そう言えば……就職が決まったと報告した時、おかんは喜んでくれ、お祝いをしてくれたが、今思うと、そんなに嬉しそうではなかったような気がする。それが証拠に、就職先であるデパートのことを何ひとつ訊いてこなかったし、触れもしなかった。

 いや、親だから、息子の就職が決まったことは嬉しかったはずだ。ましてやこの不況の折だ。特におれのようなどうしようもない奴が、デパートに就職を決めたのだ。苦労して育てた甲斐があったと実感したはずだ。

 だが、おかんは心から喜べなかった。もしかしたら、無難なところに就職を決めたことで、おれが無難な人生を歩もうとしていると感じたのではないか。もっと言えば、おれ自身が人生を楽しんでいないのではないかと思ったのではないか。人生で「遊び」を実践していないのではないかと。

 だからおれに、「ほんまにそれでええんか?」とか、「やりたいことなんか?」と訊いてきたのかもしれない。初任給で温泉という話に乗ってこないのも、そのせいかもしれない。

 そしておれも、おかんの質問によって、自分のこれからが不安になり、疑問のようなものを覚えていた。

 いや、もしかしたら、潜在的な意識の底に、このまま目に見えない何かに流されるだけの人生を送っていていいのだろうかという想いが以前からあったのかもしれない。

 おかんは、大学の四年間で、おれに何を見つけてほしかったのだろうか?

 生きていく道だろうか。

 夢だろうか。

 それとも、おれらしさだろうか。

 と、おかんがテレビのリモコンのスイッチを押す。テレビの画面に映し出されたのは、プロ野球選手のドキュメンタリー番組だった。チームを戦力外になり、他球団のテストを受けたもののすべてで不採用。しかし、その選手は韓国や台湾のチームのテストを受けるそうだ。

「そやな……まわりはあきらめが悪いとか言うかもしれへんけど、本人がまだやれる、まだやりたいと思ってたら絶対やった方がええんや。それが好きなことやったら尚更な」

「……」

 ポツリと言ったおかんの声が、やけに寂しそうなそれに聞こえた。

「!」

 おかんは野球が好きだった。若い頃はソフトボールの選手で鳴らした。親父も野球をやっていて、二人は、野球という共通の趣味で結ばれたのだ。

 野球の季節には、必ずナイターが我が家のテレビには流れていた。仕事で見られない時は、夜中のスポーツニュースを梯子して観るほど、おかんは野球が好きだった。お客とのトークに使えるという側面もあっただろう。年輩のお客との話題の種は、サッカーではなく、まだまだ野球なのだ。

 もちろん、野球そのものが好きだということもあっただろう。「今はドームもあるから冬も野球ができるのになあ、一年中やったらええのになあ」というのが、おかんの口癖だ。

 そのおかんがここ数年、野球を観なくなった。それは、営業という、仕事の一線を退いてきたこととは全く関係ないだろう。もちろん、野球が嫌いになったわけでもない。

「!」

 多分……いや、絶対おれのせいだ。

 おれが野球をやめたせいだ。思えばあれ以来、おかんは家で野球を観なくなった。

 高校の野球部が活動休止になったのをきっかけにヤンチャをし、右膝に大怪我をし、完全に野球を離れてからだ。

 膝は、リハビリで元に戻ったものの、野球を再開することはなかった。高校の野球部は卒業するまで活動休止だったし、島田が、膝はもう大丈夫、リハビリをがんばったおかげで普通の生活はもちろん、スポーツもできると太鼓判を押してくれたにもかかわらず、おれは野球を始めることはなかった。

 おかんは、おれが野球を嫌いにならないまでも、高校の野球部の荒廃によるトラウマのようなものがおれの心に宿っていると考えたのだろう。野球を観ることも、話題にすることもなかった。

「!」

 もしかしたら、おかんがおれに大学への進学を強く勧めたのは、野球をやらせたかったからではないか?

 大学で野球部に入らなくても、その四年間で、おれが野球を思い出してくれればいいと思ったのではないか。

 おかんはおれに野球をしてほしかったのだ。

 なぜなら、おれが好きなのは野球だから。

 なぜなら、おれは野球が好きだから。

 おかんは、おれにいつも訊いてきた。「大学生活どうや? 好きなことしてるか?」と。また、「好きなこと見つかったか?」とも訊いてきた。

 おれが冗談で、小説家を目指したいと言った時、おかんは喜んでくれ、小説を大量に買ってきてくれた。作家を目指すには、まずは文学に触れることだと言って。だから何でもよかったのだ。おれが目標を持てるのなら、対象は何でもよかったのだ。

 ただ、小説家を目指したいというのは冗談だと打ち明けた時、おかんはがっかりしていたが、一方でほっとしていたようにも見えた。それはやはり、野球をしてほしかったからではないか。

 本当は、おかんは、「見つかったか?」ではなく、「思い出したか?」と訊きたかったのかもしれない。

 そして今……来年の春からの仕事の話になった時、おかんは言った。「好きなことなんか? やりたいことなんか?」と。

 言わずにいられなかったのだ。

 多分、おかんが元気なままなら言わなかったセリフだと思う。大学の四年間で野球を思い出さなかったおれに、就職が決まったおれに、あえて迷わせるようなことは言わなかったと思う。

 だが、おかんは病気になった。手術も成功し、治療も順調とはいえ、膵臓にはまだ癌があり、予断を許さない状況がこれからも続く。癌という病気は一進一退ではあるが、一気に悪化の道を辿ることもある。だから、おかんは後悔を残したくなかったのだ。

 ただ、それでもおかんはおれに強制はしない。問いかけるだけだ。

 野球……。おれは野球が好きなのだろうか。

 即答できる。好きだ。今しがた、野球選手のドキュメンタリー番組に引き込まれている自分がいた。

 ただ……野球のことを考えた瞬間、右膝に違和感が生まれ始めていた。

 野球をやめてから今まで、野球を再開しようと思ったことは一度もなかった。いや、正確には野球を思い出さないように努めてきたのだろう。きっちり向き合ってこなかった。

 野球を裏切ったおれは冒涜者であり、その罰として膝に大怪我を負ったのだという気持ちがあり、それは負い目となり、野球に顔向けできないまま今まできた。

 そして、いざ野球の方を見ようとすると、まるで過去の裏切りや冒涜を戒めるかのように、膝が変な主張を始める。

 しかし、おかんは強制しないものの、おれに野球をやらせたいと思っている。それは、おかんの願望というよりも、おれが好きな野球を、おれがしないことに対し不満を抱くとともに、何とかおれを野球に導きたいという想いなのだ。

 それでもおれは、右膝が気になって仕方がなかった。この前公園で、小学生にボールを投げようとした瞬間、右膝に力が入らず、ガクリと膝が折れ、まともに投げられなかった。それを思い出した途端、膝の違和感が増した気がした。

 だが、おれはおかんのためにも、いや、自分自身のために野球に再び向き合わなければと思った。

 たまたまつけたテレビで野球選手のドキュメンタリー番組が流れていたことも何かの縁かもしれない。

 気づけばおれは、リビングの隣の寝室へと向かっていた。まるで導かれるように。

 押入れに顔を突っ込む。

「!」

 あった! おかんは大切に保管してくれていた。親父の形見のグローブとボール。押入れの一番奥、おれがガキの頃から宝箱として愛用している小さなコンテナボックスの中にそれらはあった。

「おかん、あったぞ!」

 思わず叫んでいた。

「え? 何があったんや?」

 訳の分からないおかんが訊き返してくる。

「あったんや!」

 おれは再び叫んでいた。

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