二十五

 それ以降も、おれは上半身のみ鍛えた。膝の違和感は一向に消えてはくれなかった。ただ、上半身は鍛えれば鍛えるほど、筋肉がついた。中学時代や、高校に入った頃と比べると極端に落ちていた筋肉がまるで再生されるように復活するにつれ、おれのマッサージの実力も上がってきたようで、おかんがマッサージの最中に、気持ちよくて眠ってしまうことも度々だった。その頃になると、力まかせのマッサージではなく、理に適ったそれを施すことができるようになったようで、おかんに褒められることも多くなっていた。

「さすが、おかあちゃんの子やな。上達が早いわ」

 おかんは上機嫌に言うと、そのまま眠ってしまうのが常となっていた。

 マッサージは日課になり、おかんが仕事に出た日は、首や肩のマッサージもした。仕事に出た日は、首や肩もカチカチになるので、

「おかん、カチカチや! 手が痛ぅなるわ」

 と、おどけるおれに、

「ありがたいことや。痛いのは生きてる証拠や」

 と、おかんが返す。

「ほな、おかんも感謝せなアカンな。背中や腰が痛いのは生きてる証拠や!」

「……そやな」

 おかんの声のトーンが落ちたのが気になったが、おれは、数日前から考えていたことを提案した。

「おかん、働きづめで疲れた体を労わりに、温泉でも行こか? 温泉の効能で、肩や腰がほぐれて、ええ感じになるかもしれへんぞ」

「……うん、ええな」

 と答えたものの、おかんはあまり乗り気ではないようだった。

「おれが奢るから。ほら、いつやったか、メシ奢るって言いながら、結局、おかんが払ってくれたやん。だから、旅行奢るわ!」

「……そやなぁ。でも、やっぱりええわ」

「なんでや! 金の心配はいらん。バイトで稼いだ金がたんまりあるからな」

「いや、お金の問題やない」

「えっ?」

「いや、お金の問題やな。あんた、社会に出たら、意外とお金いるんやで。だから使わんと置いとき!」

「……おかん、体がえらいんか?」

「……いや、そんなことない。あんたにマッサージしてもらうようになってから、調子もええんや」

「……」

 確かに、マッサージを始める前と比べ、顔色も良くなったし、背中や腰がかなりほぐれた影響か、だるそうな仕草やつらそうな顔を見せることは少なくなっていた。最近では食欲も出てきたようで、ビールを飲むようにもなっていた。

「ほんなら、あんたの初任給で行こ! あんたが社会に出てはじめて稼いだお金で旅行でもご飯でも奢ってもらうわ。それでええやろ? アルバイトで稼いだお金は、あんたのために使い」

「……うん」

 おれは渋々頷いた。

 おかんは、調子の悪い時は、たとえ仕事に出ても昼過ぎか、遅くても三時頃に帰ってきていたが、最近は定時の六時をまわってから帰るようになっていた。

 おれは少しホッとしていた。

「ただいま!」

「ああ、おかえり」

 おかんを玄関で迎えると、

「今日もまた家でゴロゴロしてたんかいな」

「いや、今日も公園でトレーニングしてた」

「……あんたな、上半身ばっかり鍛えてたらバランス悪くなるで。実際、もう何か体型変やで」

 おかんが視線をおれの頭の先から爪先まで動かしながら言う。

「え、マジか?」

「マジや。新種の宇宙人みたいや」

「ええっ! それは嫌やな。でも、後遺症か何か知らんけど、まだ右膝がちょっとおかしいから、下半身は鍛えられへんねん」

 おれは素直に打ち明けていた。

「……」

 おかんは黙ったまま、テーブルについた。そして、

「あーーー、しんど」

 と言った。おれはすかさず、

「ほんまにしんどい者はしんどいなんて言われへん!」

 と、つっこんだ。

「そやな」 

 おかんはそう言ったが、だが、おかんの「しんどい」は本物だった。あとになってわかったことだが……。

「ごはんの用意するから、お風呂入っといで」

「その前に、マッサージしよか?」

「いや、あとでええよ。お腹すいてるやろ? 先にお風呂入っといで」

「おおきに」

 おかんの言葉に甘え、風呂に入る。

 風呂から上がると、おかんは出勤前に下ごしらえしていたカレーを煮込んでいた。

「お、カレーやな」

 嬉しそうに言うおれに、おかんは笑顔で、

「あんたはいくつになってもカレーが好きやなあ」

 と言った。

「カレーを嫌いな人間はおれへんやろ。まあ、でも、おれの場合、おかんのカレーが好きなんや。他のカレーはアカン」

 さりげなくヨイショすると、

「おだてても何も出えへんで」

 と頭を小突きながら、

「私も風呂入ってくるわ」

 とキッチンを出ていく。

 確かにヨイショはしたが、それは照れの裏返しであり、実際はヨイショではなかった。そしてそれはおかんもわかっているはずだ。おれは、おかんの作る「おかんカレー」が一番だった。

 どの家庭にも独特のカレーの味があると思う。そして子供たちにとってはその味がカレーの味であり、おかんカレーなのだろう。

 うちの場合は、ごった煮カレーなのだが、もしかして魔法なのかと思うほど、何を入れても、ちゃんとカレーの味はするのだ。残るのだ。おかんのテクニックだ。

 おれは、おかんの「おかんカレー」が美味くてよかったと思いながら、缶ビールを飲み、ルーをかき混ぜた。その香りを堪能していると、おかんが風呂から出てきた。

「先に飲んでるで!」

「またフライングやな」

 おかんは笑いながら、濡れた髪にタオルを巻きつけている。

 おかんも缶ビールを開け、乾杯する。

 最近は、夏から秋にかけての不調が嘘のように、元気を取り戻していた。といっても、まだまだ本調子ではないようで、ビールを飲んでも、一本空けるわけではなく、半分ほど残したそれをおれにくれるのだった。

 おかんは酒が強かった。酔っ払って帰ってくるということはなかった。単純に強いというのもあっただろうが、客の前で無様な姿は見せられないという気持ちが強かったのだろう。そのために酒量をキープしていた。それに、おれとキャッチボールしなければならなかったし……。たとえ夜中に帰ってきても、おかんは「キャッチボールするぞ!」とおれを公園に誘ってくれた。外灯の弱い明かりの下、おれたちはボールの交換をした。

 自宅で飲む時も、酒量を抑えているようだった。常に翌日の仕事のことが頭にあったのかもしれない。それと、父親がいないため、手のかかる馬鹿息子であるおれに何かあった時、自分がしっかりしていなければという想いがあったのだろう。

 来春、おれが就職し、おかんが仕事を引退すれば、ゆっくり飲める時がやってくるのだろうか。

 しかし、最近のおかんは以前より酒量が減った。今夜も缶ビールが半分に減ったあたりで、ご飯が炊けたため、残りをおれのグラスに注いでしまった。かといって食欲旺盛というわけではなかった。ご飯を食べず、カレー皿にカレーだけをよそうのだった。それでも一時よりは食べる量は増えた。もちろん全盛期と比べると十分の一ほどに減っているだろうが……。

 そのことを口にしようとすると、それを察して話を逸らすかのように、

「いっぱい食べな大きくなられへんで!」

 と、おれのカレー皿にご飯とカレーを山盛り入れる。

 大阪人の悲しい習性で、おかんのボケをスルーできず、つっこんでしまう。

「もうこれ以上大きなれへんわ!」

「え? そうか?」

「当たり前や。もう二十二やど。この前もスーツ買う時、『大きめ買っときや!』って言うたやろ! 店員さん笑ってたがな!」

「かまへんがな。何でも大きめ買うのがええんや。大は小を兼ねるし。あんたが大きなれへんかっても、服は洗ったら縮むかもしれへんがな!」

「……いや、まあそやけど」

「ゴチャゴチャ言うてんと、早よ食べ!」

「……」

 と、こんな感じになるため、おれは元々話題にしようとしていた内容を忘れてしまうのだ。

 好き嫌いもなく、大食感のおれの食べっぷりを、おかんはおれが食べ終わるまで、じっと見ていてくれる。昔からずっとだ。家で食事をする時は、必ずそうしてくれる。

 十代の頃は鬱陶しいと思ったこともあった。「あっちへ行けや」と言ったこともあった。おかんは、「わかった、わかった」と一旦席を立つのだが、すぐにまた戻ってきて、前に座る。結局、おれが根負けするのだ。

 今もおかんはおれが食べるのをじっと眺めている。自分はもうとっくに食べ終え、食器を流しに運んだ後だ。今では、おかんがそうしていることが嫌ではないが、おかんの体調が気になり、言った。

「おかん、リビングのソファに座っときや。おれ、もう食べ終わるし、すぐそっち行くから」

 おかんは少し考えた後、

「そうか、ほな、そうしよか」

 と席を立ち、おれの横を通り、背後のリビングのソファに向かった。

「……」

 意外だった。そして、ある意味ショックだった。おかんなら、「もう食べ終わるんやったらここにおるわ」と答えると思っていたからだ。

 また不安が胸に広がる。

 背後ではおかんがテレビのスイッチを入れた。流行りの歌が流れ出す。

 食べ終えたおれは、カレー皿を流しに運び、洗い始めた。いつからか、後片付けはおれの仕事になっていた。生前、親父がそうしていたと聞いたからだ。別に親父の代わりをしておかんを喜ばせようという意図ではなく、なぜかそうしたかったからしているだけだ。

 洗い物を終え、リビングへ行くと、おかんは居眠りをしていた。テレビのスイッチを消す。

「なんで消すんや!」

 おかんが怒ったように言う。

「な、なんや、寝てたんちゃうんか!」

「寝てないわ。目ぇつぶってただけや!」

「……まあ、ええわ。マッサージしよか?」

「たのもかな。最近は、あんたのマッサージだけが楽しみやからな」

「そんな寂しいこと言わんと……温泉でも行こや」

 おれは、アホのひとつ覚えみたいに言った。

「あんたが初任給貰ったらな」

「……それまでに一回行こや。ぼちぼち寒くなってきたし、おれの奢りが嫌やったら、おかんの奢りで行こや」

「……うーーーん、やめとこ。贅沢はアカン」

「……」

 家族、といってもおかんと二人だけだが、うちは家族旅行をしたことがなかった。春から社会人になれば、なかなか旅行になんて行けないかもしれない。だからこそ、今行きたかった。だが、おかんは頑固だ。言い出したら聞かない。というより、温泉旅行にも行けないくらい、やはり体調が悪いのか。

 おかんがソファにうつ伏せになる。

 また少し痩せたように見えた。背中が小さくなっている。近頃、食欲も多少回復し、アルコールを口にするようになったが、それでもまた少し痩せたようだ。

 おかんは、おれのジャージの上下を着ていて、それは元々サイズ的にかなりブカブカだが、ブカブカだからこそ、その下の身体が痩せているのが際立っている。

 肩を、背中を、腰を揉む。はじめて揉んだ時と比べ、かなりほぐれてはいるが、それでも平均よりは硬いだろう。おれは、力を入れすぎず、ゆっくりゆっくり揉みほぐしていく。

「おかん、ダイエット成功しつつあるみたいやな。痩せたら、世間の男がほっとけへんのとちゃうか? まだ五十やからな」

「……」

「おかん?」

 おかんは寝息を立てていた。

「やっぱり眠たかったんやがな。疲れてるんやな、今日は仕事に出たからな」

 おれはおかんを起こさないように、しかし、力を緩めすぎずにマッサージを続けた。

 自分のマッサージが効くかどうかはわからないが、マッサージの最中に眠ってしまうということは、不快ではないということだろう。

 昔、おかんがおれの肩や腕、背中をマッサージしてくれると、疲れが取れた。そして眠くなった。安心感があったのだ。

 おかんのマッサージを最後に受けたのはいつだったろう。おれが野球をリタイアした高校一年の時だっただろうか。もう、五、六年受けていないことになる。

 おかんはどう思っているのだろう。おれが野球をリタイアしたままでいることに対して……。

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