二十四

 新世界から目と鼻の先の自宅までタクシーを使ったことや、団地の五階の部屋まで上がるのに、途中何度も休憩を挟んだり、息切れが激しかったり……そんなおかんを見ていると、いたたまれない気持ちになった。

 昔は、たとえ仕事がつらくても、それによって体調を崩しても、おかんはそういった素振りすら見せなかった。若く、体力もあったからかもしれないが、弱さを見せなかった。

 だが、この春五十になったこともあってか、おれに弱さを見せるようになった。

 それは、おれにとっては嬉しいことのようでもあり、心配なことでもあった。歳を取ると弱気になるというが、おかんに限ってそんなことはないと今まで思い込んでいたからだ。それにまだ五十だ。昔は人生五十年といったそうで、実際に平均寿命がそのあたりだったようだが、現代の五十歳といえば働き盛りといわれるほど元気で精力的な年代だ。プロ野球の選手でも、五十歳近くまで現役を続ける選手がいるくらいだ。

 だからおかんも、本来ならまだまだ仕事をセーブする年齢ではないはずなのだが、実際に仕事量を減らし、体もつらそうだ。確かに今まで、人の何倍も何十倍も働き、息子に手を焼き、色々なことがあり、世間の五十歳よりは人生の疲れが溜まっているとは思うが、今まで見せなかった表情が出たり、セリフを口にしたり、つらそうな態度や仕草を見せる様を目の当たりにすると、心配になり、不安が広がる。

 いや、若い頃にも憔悴した表情を見せることはあった。仕事のスランプだったのか、台所のテーブルで頭を抱えていたのを影から見てしまったことがある。だが、それはあくまで自分一人だと認識している時であって、おれが姿を現すと、おかんは明るい表情に戻り、元気に話しかけてきてくれた。

 父親がいないせいもあり、自分の弱いところをおれに見せたら、おれが不安になるという意識があったのだろう。おれを対等な立場で見てくれてはいても、親子は親子だから、弱味は見せなかった。ということは、そういった部分ではやはり対等ではなかったのかもしれない。

 とすると、社会人デビューを来春に控えたおれは、やっと本当の意味でおかんと対等になれたということか。いや、それとも、本当に体調が悪いのか。

 親父の墓参りに行った後も、おれは再三病院で検査を受けるよう、おかんに言った。だが、つい九ヶ月前に受けた人間ドックの検査ではどこにも異常は見られなかったと言われれば、それ以上は何も言えなかった。また来年の正月に人間ドックに入るから、その時に検査すると言うのがおかんの定番の答になっていた。

 ただ、決して「しんどい」とか「痛い」とかいうセリフを口にしなかったおかんが、それらを頻繁に口にするようになったのが気がかりで心配だった。

 おかんは決して弱音を吐かなかったし、おれが弱音を吐くと叱咤激励してくれた。

 そんなおかんが……「ほんまにしんどい人間は、しんどいなんて言われへん」というのが口癖だったおかんが、「しんどい、しんどい」と度々口にする。

 おれは思い切って言ってみた。

「おかん、ほんまにしんどい人間は、しんどいなんて言われへんぞ」と。

 おかんは、キョトンとした顔をし、

「え? 誰がや? 誰がしんどいなんて言うた?」

 と訊き返してきた。

「……いや、別に……」

 おれは虚を突かれたように黙り込んでしまった。

 おかんは無意識に「しんどい」と言っていたのだ。ということは、かなりしんどいのか、あるいはたいしてしんどくないのに口癖のようになっているのか……。例えば、立ち上がる時に「よっこいしょ」と言ってしまうのと同じ類のような……。

 わからないが、多分前者だろう。無意識に言ってしまうほど、しんどいのだ。

 そして最近では、背中や腰が痛いとよく言うようになった。今までは、仕事で一日中歩きっぱなし、立ちっぱなしのため、毎日足や腰がパンパンに張っていたが、おかんは愚痴や弱音は吐かず、風呂に温泉の素を入れたり、整骨院に通ってマッサージを受け、ケアをしていた。しかし、今はそんな気力もないのか、背中や腰が痛いと口にし、ソファに寝そべって、野球のボールを痛む箇所にあてがい、ゴリゴリとやっている。

 そんなおかんを見たおれは、ふと思いつき、言った。

「おかん、マッサージしたろか?」

 おかんは、

「ええよ、そんなん。バチあたるわ」

 と言っていたが、おれがしつこく言うと、

「あんたにマッサージなんかできるんかいな」

 と悪態をつきながらも、ソファにうつ伏せに寝転んだ。

 おかんの背中を見下ろす。

「!」

 改めて見ると、小さくなった事実に気づく。親父におんぶされた記憶はないため、おんぶの記憶はおかんのものだ。大きな大きな背中にジャンプして飛び乗ったのを覚えている。まだ昨日のことのようだ。そして、おかんの身長を追い越した後も、その背中の大きさに勇気づけられ、助けられた。

 だから、単純におれが大きくなったから、おかんの背中が小さく見えるのではないのだ。そう考えると心細くなる。

 そんな不安と一抹の寂しさを振り切るように、おれは背中から腰にかけて、自己流のマッサージを施す。

「!」

 触ってみて驚いた。まるで皮膚の下に鉄板を敷いたようにカチカチになっていた。昔はふくよかで弾力があった。おかんの背中に飛び乗ると、まるでクッションのように気持ちがよかった。

 その頃と比べてかなり痩せてはいるが、まだぽっちゃりとした体型だ。それでも体に弾力性はなく、カチカチだった。

 おれは、親指を立て、指圧の要領で圧していく。だが、全く指が入っていかなかった。

「全然効かへんで」

 おかんが言う。

 おれはムキになり、親指に力を込めた。だが、弾き返される。それでも力を入れていると、腕がプルプルと震え、手首に力が入らなくなった。

 膝のリハビリでPTにマッサージを受けている時、島田が、マッサージは肉体労働と言っていたが、まさにそのとおりだ。

「アカンなあ。さっぱりやで。やっぱりええわ」

 おかんが起き上がる。

「ごめんな、おかん」

 おれは素直に詫びた。情けなかった。申し訳なかった。

 だから、次の日もその次の日も、おかんをソファにうつ伏せにし、マッサージを試みた。だが、なかなか指は入っていかず、満足なマッサージができなかった。

 マッサージは確かに肉体労働だ。おかんは、そんな肉体労働を、何年も何年も、おれに施してくれていたのだ。それも、ハードな仕事の後に。改めておかんの凄さに気づくと共に、五十という年齢であちこちにガタがきても仕方ないと思うのだった。そしてそれはおれのせいでもある。

 おれは、来る日も来る日もおかんの背中と腰をマッサージし続けた。おかんもおれの下手なマッサージに付き合ってくれた。

 おれはマッサージのかたわら、腕と手首、指の強化運動を始めた。もちろん、おかんに少しはマシなマッサージができるようになるためだ。

 三本指での指立て伏せ。それに慣れると、親指一本での指立て伏せに移行した。片腕での腕立て伏せもしたし、団地の公園へ行き、鉄棒で懸垂もした。そんなトレーニングをしていると、血が騒ぐというわけではないが、どんどん体を苛めてしまう。そして、日に日についていく筋肉を見ると、もっともっとトレーニングしようと思ってしまうから不思議だ。懸垂をしていても、ついつい時間を忘れてしまう。気づけば十分以上続けてやっていた。回数にして三百は越えていたと思う。腕がパンパンになっていた。それを見ていた小学生が拍手してくれた。おれは照れながら手を振った。

 彼らはキャッチボールをしていた。部屋に籠ってゲームばかりする子供が増える中、表で遊ぶ子供がいることに嬉しくなったおれは、彼らのキャッチボールをじっと見ていた。

 と、少年がキャッチし損ねたボールが足元に転がってくる。軟球だった。

「!」

 不意に、自分自身も少年に戻ったような気持ちになり、ボールを拾って投げようとした。少年も立ち止まり、おれが投げるのを待っている。

「行くぞ!」

 ボールを握るのは久しぶりだったが、それを手にした瞬間、自然と投球フォームに移ることができた。

 しかし……。

 右腕をバックスイングし、右足に体重をかけた瞬間、膝に違和感を覚えた。と思った時には体重を支えられず、膝を折っていた。だが、投球動作に移っていたため、崩れた体勢のままボールを投げてしまった。ボールは転々としながら少年の元へ。少年は笑いながら、それをグラブに納めるや、「ありがとうございます」と礼儀正しく頭を下げ、駆けて行く。

 おれは立ち上がり、膝についた土を払うと、右膝をじっと見つめた。

 恥ずかしさよりも、戸惑いに包まれていた。

 何年間も忘れていたかつての膝の傷。日常生活を送るのに支障は全くなく、この五年の間に気になったことは一度もなかった。島田のリハビリのおかげで、完全に治っているのだろう。しかし、ボールを投げようと体重をかけた瞬間、膝に違和感を覚え、力が入らなくなった。膝を怪我したことを思い出してしまった。

 そしてその違和感は全く消えてくれそうになかった。

 確かにこの五年間、おれはまともに運動やトレーニングをしてこなかったから、足の筋肉は落ち、かなり細くなっている。そういえば、極力足を使わなかった記憶がある。思い返すとそうだ。エスカレーターやエレベーターがあれば必ず使うし、団地の階段を昇る時も、どちらかというと左足に体重をかけていたように思う。

 おれの膝は、本当の意味で治っていなかったのだ。

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