二十三

 そんなある日、おかんが親父の墓参りに行こうと言い出した。おかんは月命日には必ず参っていたが、おれは気が向いた時にだけ手を合わせに行っていた。おかんが一緒に行こうというのは珍しい。もちろん断る理由はなく、おれはおかんと久しぶりに外出した。

 おれたちが住む大国町から地下鉄御堂筋線で一本、二駅南に天王寺という駅がある。大阪でも一、二を争うターミナルだが、駅を少し離れると、昔ながらの町並みも残っている。寺も多く、親父の墓もその中にあった。

 ガキの頃は、休みの度におかんと一緒に参った記憶がある。中学に入る頃には一緒に参ることもなくなった。約十年ぶりにおかんと並び、墓前に手を合わせる。

 少し前屈みになっているせいか、おかんがやけに小さく見えた。ブラウス越しの背中の肉が落ちたようだ。それでもまだふくよかさを保っている。ただ、かなり痩せたことに変わりはない。またもや不安が頭をもたげ始めた。だが、正月の検査ではどこにも異常は見られなかった。大丈夫だろう。

 おかんは、ガキの頃と同じように、

「カズを強い人間にしてください」

 と言った。

「え? 何や、今さら!」

 おれは本気で驚いておかんにつっこみを入れる。だが、おかんは真剣な顔で、

「いやいや、今よりもっと強くなってもらわんとな」

 と返してきた。

「これから社会へ出ていくわけやし」

「まあ、そやけど……」

 おかんは目を閉じ、黙って手を合わせている。

 おれも神妙な顔になり、再び手を合わせた。

 親父はおれを守って命を落とした。その瞬間、おかんはどういう心境だったのだろう。そして今、どういう心境なのだろう。目を開け、隣のおかんを盗み見た。

 おかんが目を開ける。

「まあ、それでも、おとうちゃんに似て、強く育ってくれたわ」

 と呟いた。

 おれは聞こえないフリをした。

 隣に眠る、叔母の墓にも手を合わせ、

「おねえちゃん、カズは来年から社会人や。考えられへんやろ? 毎日おねえちゃんのところで、私の帰りを泣きながら待ってた子がやで……」

「……」

 おかんの目に涙が光ったような気がした。戸惑ったが、おれは気づいていないフリをした。

 おかんの涙は苦手だ。というより、子にとって親の涙はあまり見たくはないものだ。

 帰り道、おかんは新世界に寄って行こかと言った。新世界とは、大阪のシンボルでもある通天閣のお膝元の町だ。串カツ屋を中心とした飲食店が所狭しと軒を連ねている。

「ええな。通天閣でものぼるか」

「そやな」

 新世界は帰り道だ。天王寺から歩いて十分。新世界から自宅まで歩いて十分。つまり、ここから自宅までのちょうど真ん中あたりに位置する。

「タクシー乗ろか」

 おかんが言う。

「いや、すぐそこやから……」

 おれは途中で言葉を切った。おかんがしんどそうにしていることに気づいたのだ。坂の上り下りがあったせいか、息切れしている。

 おれは、タクシーで行こうと言いかけたが、おかんは、

「いや、歩こか。動物園の中を通り抜けて行こ!」

 と急に思いついたように言った。

 肩を並べて歩く。身長差は二十五センチほどある。当然足の長さも違うため、ついつい先に歩いてしまう。おれは意識して歩くスピードを落とした。

 天王寺公園を抜け、動物園へ入る。

「久しぶりやなあ、おかん」

「そやな。あんたが小学生の時に来て以来やな」

 秋の動物園は、夏ほどではないが、臭かった。糞尿の臭いもそうだが、獣臭が漂っている。檻の中とはいえ、生き物が生きているという証拠だろうか。

 おかんはそんな臭いを気にするふうでもなく、子供のようにはしゃいだ。

「象の親子は顔そっくりやな」

「当たり前や。象なんかどれもこれも同じ顔や」

「なんで当たり前や? あの象の親子は、親子やからこそ似てるんや。他の象は、それぞれどこかしら違うはずや」

「……」

「キリンの親子もよう似てるわ」

「だから当たり前やろ。キリンなんかどれもこれも同じ顔で、見分けつかへんがな」

「そんなことあれへん。親子やからこそ似てるんや」

「……」

 おれたちは、象、キリン、熊、ライオンや虎を見てまわり、アシカに餌をやり、ベンチに座ってソフトクリームを食べた。

「おかん、あの売店の親子、そっくりやど」

「当たり前や」

「なんで当たり前やねん?」

「親子やからや」

「……」

「うちらも言われてるで、『あの親子そっくりやで』って」

「……」

 もし、そう言われていても、嫌な気持ちはしない。むしろ嬉しかった。思春期を迎えた頃は、おかんに似ていることが嫌で嫌で仕方なかった。なぜあれほど嫌だったのかわからないが、おかんと一緒に歩くことすら嫌だったものだ。それが今では、まるでカップルのようにベンチに並んで座り、ソフトクリームを舐めている。

「あんたは、顔は私に似て、身長とか体つきはおとうちゃん似やな。性格は……どっちにも似てるかな」

 おかんが呟く。どこか遠いところを見ているような目だった。

「……そら、親子やからな」

「そや、親子や」

「親父は……おれを生かすために死んだんやな。おれにとってはヒーローや」

「……ヒーローなんて言うたら、おとうちゃん照れるわ。本能や。親の本能であんたを守ったんや」

「……親父は幸せやったんかな?」

「幸せやったと思う。あんたを助けることができたんやから。子供を守って逝けたんやからな」

 おかんはキッパリそう言った。

「……野生の動物もそうなんやろな。敵から子供を守るため、親は命を落とすこともあるんやろな。そういう意味では、この檻の中の動物親子は、敵と戦うこともないし、食いっぱぐれもない。せやけど、それが幸せなんかどうなんか……」

「うん……でも、どっちも幸せなんちゃうやろか。幸せなんてそれぞれやからな」

「……そやな、それぞれやな。で、おかんは?」

「えっ?」

「おかんは幸せか?」

「……そやな。色々あったけど、こうやって嫌がらんと一緒に歩いてくれるあんたがいて、幸せやな。あんたには苦労させられたけどな」

 最後はいたずらっ子のように笑った。

「これからも苦労かけるわ。それがおれの仕事や。ボケんでええやろ?」

「アホ! 調子に乗んな!」

 おかんに頭をはたかれる。久しぶりだ。ガキの頃はよくはたかれた。ボケとツッコミの街、大阪では日常茶飯事の光景だ。

「あんた、その坊主頭どないかせんとアカンのとちゃう? そんな頭で就職できひんやろ?」

 おかんがはたいたばかりの頭を見て言う。

「ああ、これな。まあ、そうかな。やっぱマズイかな。デパートからは何も言うてきてないけど」

 おれは坊主頭を撫でながら呟いた。

 十歳の時、野球を始めた。その時にはじめて坊主頭にした。中学の頃、調子に乗って髪を伸ばしたりしたが、結局坊主頭が一番似合うし、楽だからということで、以来ずっとこの頭だ。高校でリタイアした後も、坊主頭で通した。色は抜いていたが……。

「春までには伸びるやろ」

「あんた、スケベやから伸びるのも早いやろ」

「誰がやねん!」

 つっこんだ時には、おかんはベンチから立ち上がっていた。

「通天閣のぼってから串カツ食べよか?」

「ええな……せやけど……」

「ん? 何や?」

「いや……」

 おれは、おかんの食欲の無さを思い出し、またもや不安になっていた。

 通天閣にのぼる。

 二十二年間、大阪に、それも目と鼻の先に住んでいるが、のぼったのははじめてだ。そういうものなのかもしれない。地元の観光地や名所にはなかなか行かないものだ。近いから、いつでも行けるという気持ちがあるからだろうか。

「のぼるのはじめてやわ」

 エレベーターの中で、おかんが呟くように言った。

「ええ? ほんまかいな!」

 驚いたことにおかんも通天閣初体験だった。

「まあ、そんなもんかもしれへんなあ」

 おれはそう呟き、エレベーターの中を見渡した。標準語、地方の方言、外国語が飛び交っている。観光客ばかりだ。やはり地元の観光地には地元民は来ない。

 エレベーターを降りるとまだ通天閣の中腹あたりだった。ロビーと呼ばれる、通天閣の土台部だ。ここまでは金を取られないが、ここから上へは金を払って別のエレベーターに乗る必要がある。

「どうする、おかん? せっかくやし、上の展望台まで行くか?」

 おれは、当然行くものだと思ったが、一応訊ねた。だが、

「……うーん、どうしよ。今日はやめとこか。ちょっと眩暈するし……」

 おかんは地上約三十メートルのロビーから下を見下ろし、頭を振りながら言った。

「……そうか……まあ、いつでものぼれるからな。それよりおかん、高所恐怖症やったか?」

「多分」

「多分てなんや!」

 おれはつっこみながらも、おかんが展望台までのぼろうとしなかったことが気がかりだった。眩暈がするからと言ったが、最近立ち眩みすることが多く、疲れていることは明らかだった。

 通天閣を下りる。

「あんた、この前言うてたけど、おかあちゃんは大阪に五十年住んでるけど、ほんまに行ったことない場所多いわ」

「……いつでも行けるがな」

「……そやな」

 おかんは少し寂しそうに笑った。その寂しそうな笑顔がまた気にかかる。

「串カツ、どこで食べる?」

「そやなあ……」

 おかんが顔を曇らせた。

「どないした?」

「……今日はなんや歩きすぎたせいか、腰が痛いし、吐気もするし、ちょっとしんどいわ。串カツやめにしてええか?」

 おかんが申し訳なさそうな顔で言う。

「……うん、ええで。いつでも来れるしな」

 おれは、弱音など吐いたことのない、逞しく強いおかんのセリフが信じられなかった。おかんの口から「しんどい」というセリフを聞いたのははじめてだった。

 おかんがタクシーを止めている。

「……」

 複雑な想いでおれはそれを見ていた。

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