三十四

 おかんは薬の影響もあってか、翌朝まで眠り続けた。

 おれは、検査のことが気になって、一睡もできなかった。隣のベッドで静かな寝息を立てるおかんのことが気になり、ベッドのまわりをグルグル回って過ごした。途中、杖やグローブのことが気になり、公園へ取りに戻った。結局、朝まで起きていた。

 目覚めたおかんは、開口一番、

「ああ、よう寝た。あれ、あんたも泊まったんかいな? よう寝れたか?」

 と笑顔で訊いてきた。

 おれが、

「おう、爆睡や!」

 と答えると、

「嘘つけ! あんたの嘘はすぐバレるんや!」

 と軽く睨み、

「ごめんな」

 と申し訳なさそうな顔で言った。

「何がや? おれが眠れんかったんは、枕が変わったからや!」

 尚も嘘をつくと、

「嘘つけ! 枕が変わったくらいで眠られへんようになるタマか。まあええわ。ありがとう」

 とおかんは頭を下げた。そして、

「貧血って聞いたけど、今日家に帰れるんか?」

 と訊いてきた。

「多分帰れると思うけど……ただ、今日もう一回検査するそうや」

「え……そうなんか?」 

 さすがに不安そうな顔になる。

「念のためって言うてたけどな」

「……そうか」

「……なんや、おかん、心配してんのかいな? 大丈夫やろ、昨日の検査ではどこも悪くなかったんやから」

「そうやな」

 おかんは頷いたものの、少し表情に翳りがあった。

 妙な沈黙が流れたため、おれは野球を再開する旨を伝えようとした。だが、そんな「宣言」は必要なかった。

「カズ、人生はたった一度きりやけど、でも、生きてりゃ何度でもやり直せる」

 おかんが不意に言った。

「え? なんや?」

「あんた、六年間も……それも、一番成長する時期に六年間も野球から離れてたんや。ある意味崖っぷちかもしれへん」

「……」

「崖っぷちでジタバタしてもしゃあない。後ろ向きになったら真っ逆さまに落ちてそれでおしまいや。それやったらいっそ、自分から跳べばいい」

「……」

「跳んで、一回落ちるところまで落ちて、足元固めて、また這い上がったらええ」

 いつものことながら、「おかんのことば」は本当に的確だった。

「……そうやな」

「それからな、カズ」

「ん?」

「六年間のブランクがあるんや。真っ直ぐ行く必要はない」

「えっ?」

「ナナメもありや。曲線もな。それは、人生に関しても言えることや。そのかわり、まともに真っ直ぐ行く者に比べて、ナナメに行く者は、五倍も六倍も努力が必要やけどな」

「……うん」

「カズのやり方、生き方で行ったらええっちゅうことや」

「うん」

 おかんの言葉はいちいち胸に沁み渡ってくる。

 そこへ島田が入ってきた。検査の説明をし、午後一で検査することを告げ、出て行った。島田は今日も診察に追われている。

「おかあちゃんは検査があるから流動食もなしや。あんた何か食べといで」

「……いや、おれもメシ抜くわ。腹も減ってないし」

 だが、そう答えた途端、腹の虫が鳴った。

「アホ、何か食べ!」

 おかんはハンガーに掛けられた上着を指差し、

「ポケットに財布が入ってるはずやから」

 と言った。

「ほな、何か食ってくるわ。でも、朝やし、どこも開いてないわな。コンビニかスーパーでパンでも買って、そのへんで食ってくるわ」

 腰掛けていたベッドから立ち上がると、

「アホ! 何を気ぃ遣ってるんや。ここで食べたらええがな。心配しいな、取ったりせえへんから」

 おかんが真剣な顔を作って言う。

「……アホやろ? 誰も取るとは思ってへんわ」

 おれは病院近くのコンビニで、アンパンとコーラを買い、病院へ戻った。

 コンビニの袋からそれらを取り出すと、おかんは呆れた顔で言った。

「あんたはほんまにアホやなあ、アンパンには牛乳やろ!」

「かまへんがな、おれはアンパンにはコーラが合うんや。それに、アンパンに牛乳やと、張り込み中の刑事そのものやろ」

「いつの時代の刑事や。それにしても、味覚音痴やなあんた! バカ舌やな」

「……そうかもしれへんな」

「なんやて! ほな、何か! あんた、おかあちゃんのカレーが美味しいって言うけど、味覚音痴のあんたが美味しいっていうことは、ほんまは不味いって言いたかったんか!」

「……誰もそんなこと言うてへんがな!」

「ふうん、でも、アンパンにコーラの組み合わせは、味覚音痴にしか思い浮かばへん発想や!」

「うるさいわ! そんなん言われたら、いつまで経っても食われへんわ!」

 おれはコーラの缶を振り、おかんの方へ向けてプルトップを引いた。シュワッと小気味良い音を立て、泡が迸る。おかんの顔が泡まみれになる。

「コラ! 何するんや! あんた、ほんまにアホやろ!」

 おかんが呆れた声を出す。だが、その目は笑っていた。

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