三十三

 おかんに駆け寄ったおれは、おかんの携帯から島田病院へ電話を入れ、おかんが倒れたので今から行くと伝えた。救急車を呼ぶつもりはなかった。島田が言ったことを思い出したのだ。「容態が悪くなれば、自慢の力で担いで連れて来い。救急車を待つよりその方が早い」という言葉を。

 意識のない病人を、素人が、それも担いで運ぶというのはリスクを伴うが、もし一刻を争う状況だった場合、救急車を待っていては手遅れになる可能性がある。繁華街のミナミに近い場所とはいえ、下町の大国町は道が入り組んでいて、おまけに一方通行路も多く、迂回を余儀なくされる。サイレンを鳴らした救急車でも到着までに時間がかかる。ましてやここは団地の中だ。大通りに出ても流しのタクシーなど走っていない。

 杖とグローブ、ボールを植え込みの中に隠すように置き、おかんを担ぎ、一旦ベンチに座らせる。おかんに背中を向け、ぐったりしたおかんの両手首を持ち、それをおれの首の前でクロスさせる。膝の裏を抱え、一気に立ち上がった。

「!」

 軽い!

 意識がないため、全体重がかかってくる。だが、それにしては、おかんはあまりに軽かった。

「おかん……」

 もちろん、おかんをこうしておぶるのは、はじめてのことだが、しかし、おれが想像していた大人の女性の重さがそこにはなかった。

「おかん……」

 再び呟く。早く歩きださなければならないのに、しばらく動けなかった。

 ショックだった。

 ふくらはぎも極端に細くなっている。

 ただ、おれの背中に感じるおかんの鼓動は強く、それだけが救いだった。

 歩きだす。

 歩きだすと、なぜか幼い頃、おかんにおんぶされた時の記憶が蘇ってきた。いや、本当に記憶なのだろうか。おんぶされていたのは、一歳か二歳くらいまでだろう。その頃の記憶が残っているとは思えない。だが、確かにおれの脳裏には、おかんにおぶられる姿が浮かんでは消え、そしてまた浮かんでくるのだった。

 多分、心の記憶なのだろう。絆の記憶とも言い換えられる。あるいは、ぬくもりの記憶。

 おかんは、おれをどんな想いでおぶっていたのだろう。

 大きくなれよと願いながらおぶったのだろうか。強くなれよと願っていたのだろうか。

 それとは裏腹に、おんぶできるのは今だけだという一抹の寂しさにも似た想いを抱いていたのだろうか。

 背中で眠ってしまったおれを愛おしく想ってくれただろうか。

 いつかこうして、おれがおかんをおぶることを想像しただろうか。

 こんなふうに、怪我や病気で倒れたおれをおぶって医者へ走ったことがあると叔母に教えられたことがある。その時は唯一、島田だけが対応してくれたのだ。

 今、その時の恩返しをするかのように、おれはおかんをおぶって走っている。

 おれは……おれには……夢を見た記憶がある。それは、病院のベッドで亡くなった年老いたおかんを、おれが抱きかかえるようにして、自宅へ連れて帰るという夢だ。葬儀屋の、車で運びますという声を無視し、おかんの体から管という管を抜き、おかんを抱き上げる。と、そこで目が覚めたのだった。

 嫌な夢だったが、いつかおかんもあの世へ旅立つ時が来るんだと思い知らされると同時に、年老いて小さくなったおかんを抱き上げることは、おれの役目なのかもしれないと思ったものだ。

 今、おかんを病院へ運びながら、そんな夢を思い出してしまった。不吉だ。おかんはまだ死なない。死んでたまるか!

 まだまだ、おれを叱ってもらわないと。それにまだ五十だ。これからだ。膵臓に癌という爆弾を抱えてはいるが、それすら完治する可能性があるのだ。

 おかんは闘う道を選んだ。手術をし、治療をし、治す道を、生きる道を選んだ。安易な延命治療に逃げずに闘う道を選んだ。そう、おかんは逃げなかった。

 そして今も、おれの背中で闘っている。

 溢れ出そうな涙をこらえながら、おれは島田病院の門をくぐった。

 時間外だったが、もちろん島田は検査をしてくれた。それも念入りに。

 一応、夜間や日祝は休診ということにしているが、あくまで一応だ。島田は病院の敷地内に住んでいるし、急患も受け入れる。二十四時間三百六十五日営業だ。

 島田は、病気や怪我は時を選ばないものなので、病院が休みを設けるのはおかしいという考え方だ。コンビニが二十四時間三百六十五日営業しているのと同様、必要な人はいつでも来てくれというスタンスだった。だからいつでも受け入れ可能にしている。ただ、それではあまりに過酷な労働条件になるし、一人では対応できないこともあるので、信頼の置ける非常勤のスタッフを数多く抱えているのだ。

 今日は島田が診てくれた。

 検査の結果、貧血と診断された。おれは拍子抜けした。おかんもほどなく目を覚ました。

 目を覚ましたおかんは、

「あれ? ここ病院か……あ、先生どうも!」

 と言った後、おれを見て、

「あ、そうや、あんたにデッドボールぶつけられて倒れたんやったな」

 と、おどけるようにして笑った。

「なんでやねん。急に倒れたからビックリしたわ」

「そうか、それであんたがここまで運んでくれたんか? 何か、おとうちゃんにおんぶされてここへ来たような気がするわ」

 倒れたおかんが意外に明るかったので、ホッとしたおれは軽口を返した。

「へえ、そうか……おかん、親父におんぶされたことあるんか?」

 とニヤニヤしながら訊くと、

「いや、ない。ないけど、なんとなく想像してみたことはある。おとうちゃん、広い肩幅と、分厚い背筋してたから、きっとあったかくて、安心できて、安らげる空間やろうなって思ってた」

「……」

「なんか、そんな想像どおりの背中におぶられて、ここへ来た気がするわ」

 おれはなんだか嬉しくなった。だが、

「そうか」

 とだけ答えた。

「ありがとうな、カズ」

 おかんは笑うと、そのまま目を閉じ、眠りの世界へと吸い込まれていった。

 島田がおれを呼ぶ。

「今日はこのまま泊まっていったらええ」

「はい」

「それで、実はな」

「はい」

「明日もう一回、検査させてくれへんか?」

「え? だって今さっきしたばっかりやないですか?」

 検査も体力を消耗するという話を聞いていただけに、おれはそう口にしていた。貧血と聞いて拍子抜けし、安心したばかりだったのに、戸惑ってもいた。

「検査の結果、異常はなかった。でも、気になるんや。別に脅かすわけやないけど、嫌な予感がする。確かに、抗癌剤の副作用で貧血気味になるのはよくあることや。ただ、意識を失うまでの貧血となると、体のどこかに異常があると考えた方がええ」

「……でも、検査の結果……」

「そや、どこにも異常は見られへんかった。だから念のためや」

「……」

「もっと言うとな、癌という病気は一進一退を繰り返すもんでな……極端に言うと、昨日腫瘍マーカーの数値が良くなったと思ってたのに、今日検査してみると転移していたというケースもあるんや」

「……」

「だからこそ、頻繁に検査するんや。たとえ、検査で体力が消耗されたとしてもな」

「……わかりました」

「今日はおかんと一緒に寝ろ。隣にベッド運んだる」

「ありがとうございます」

 島田が部屋を出ていこうとする。おれは、その背中に声をかけた。

「先生の嫌な予感が外れることを祈ってます」

 足を止め、振り返った島田は、

「ワシもそう願ってる」

 と笑った。

 だが、その頃にはもう、おかんの血液の中は、転移しようとする癌細胞の欠片でいっぱいだった。

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