四十二
だが、ある日、おかんは突然痛みを訴えなくなった。
もはや奇跡が起きない限り快方には向かわないと覚悟していただけに、おれは希望を持って島田の部屋へ急いだ。
だが、おれの望みはあっさり崩壊した。
癌が脳に転移していたのだ。
転移した影響で、痛みを感じなくなったようで、そういったことは稀にあるそうだ。島田の部屋でおれはそう告げられた。
「すまん……」
島田は頭を下げた。
おれは首を振った。
「先生はできることをすべてしてくれてます。それで転移したんですから……」
仕方ない、という言葉をおれは呑み込んだ。仕方ないと言ってしまえば、癌に負けたことになるような気がしたからだ。
それにしても……不思議とおれの心は穏やかだった。おかんが癌になった時のように波が心に立っていない。
冷静でいられている。それは決して、あきらめの境地になったからというわけではなく、必死に闘っているおかんのがんばった経過を素直に受け止めようという想いからだった。
「カズ……今、脳の腫瘍を取り除く手術をするのは……」
「わかってます。今のおかんの体力では無理ですよね……」
島田はまるで自分が悪いかのように、再び頭を下げた。
「おれね、先生……」
「ん?」
「膵臓に癌ができて、あちこち転移して……骨や脳にまで転移して……手術できひんような状態で……でも、おれはおかんが癌に負けたわけやないと思ってます。もちろん自分にも負けてない。そしてまだ闘っている」
島田が大きく頷く。
「今、こうしている間も、おかんは闘ってます。生きようとしてます。もちろん、おれもまだあきらめてません!」
いつの間にか涙が静かに湧き出ていた。
「でもね……負けを認めるわけやないですけど、『ようがんばったな、おかん』っていう気持ちもあるんですわ。あきらめへんっていう気持ちと矛盾するかもしれへんけど、でも、副作用で苦しんでいる姿や、管だらけの体見てると、そんな気持ちになってしまうんです。それが正直なところなんです」
島田は頷き、言った。
「それが癌患者を家族にもった人間の素直な想いやと思う。患者が必死で闘えば闘うほど、つらくなることもある。でも、本人にはあきらめてほしくない。がんばってほしい。それでも見ているのがつらくなり、早く楽になってほしいとも思ってしまう……」
「おかんはね……負けたくないって思ってるはずです。癌に勝ちたいって思ってるはずです。こんな馬鹿息子を、バカのまま放ってあの世へ逝きたくないと考えているはずです。それがね……おれはつらいんです」
涙が止まらない。心は冷静なのに、涙が止まらない。
「母親やからな……特に女手ひとつで育ててきたから余計にな……」
「……」
と、そこへ看護師がやってきた。
「お母さんが目を覚まされました」
おれは頷き、涙を拭った。島田の部屋を出る。振り向くと、島田が早く行けと目で促していた。一緒には来ないようだ。おれは再び頷くと、おかんのいる部屋へ向かった。
部屋に入ると、おかんが笑顔でおれを迎えてくれた。ベッドのリクライニングを起こし、凭れるように座っている。
「元気か、カズ?」
「うん、元気やで」
どこも痛くないんか、という言葉を呑み込んだ。その言葉を聞いて痛みを思い出すこともある。
「見てみ、このお腹。また太ってしもたわ」
腹水で大きくなった腹をさすりながら言う。
「おかん……」
「アホ、冗談に決まってるやろ!」
と、おかんはカラカラと笑った。久しぶりに笑う姿を見た。そして、それは心からの笑いのように見えたし、おれを元気づけるための笑いのようにも感じられた。
「手も足も細うなってしもて……お腹だけポッコリ出て……まるで栄養失調みたいやな……あ、まあ、似たようなもんか」
とまた笑った。
乾いたばかりの涙が溢れてきた。
「なに泣いてんの? アホやなあ、あんた。ほんま泣き虫なとこだけは直らへんなあ」
「おかんに似たんや」
おれは涙を拭った。
そんなおかんの目にも、うっすら涙が浮かんでいた。
冗談ばかり言っているが、それはおかんの精神がまともな証拠だ。もちろん、おれが誰であるかも認識している。認知症のような症状もない。痛みを訴えることもない。脳への転移が奇跡をもたらしたのだろうか。そうであるなら皮肉だ。おれが欲しいのはそんな奇跡じゃない。
「カズ、ピッチングフォームはどうや? 自分のもんにしたか?」
「……うん、多分……」
再び涙を拭いながら答える。
「これ持って投げる格好してみてくれへんか?」
おかんはそう言い、新品の硬球をおれに差し出した。
「これ……」
「先生に頼んで買ってきてもろたんや。あんた、まだ軟球で練習してるんやろ? それもツルツルの。ボチボチ硬球に慣れとかなアカンと思ってな。テスト近いやろ?」
「おかん……」
「ん?」
「ごめんな……いつまでも世話かけて」
「アホ! 母親やから、世話かけられるのは覚悟してるわ。死ぬその瞬間まで、あんたの世話するのが、おかあちゃんの役目や」
「……」
ボールを握りしめると、新品ながらやけに手に馴染んだ。おかんだ。おかんが、おれの手にフィットしやすいように、捏ねてくれたのだ。ほとんど力が入らない手で……。
また涙が溢れ出す。それを隠すため、おれはシャドーを始めた。おかんにアドバイスを受けた通りのフォーム。
「相当投げ込んだな」
一度シャドーをしただけで、おかんは見破った。
「そんなにしてないよ」
「嘘つけ! 毎日毎日投げ込みしたやろ? ここでもシャドーしてたやろ?」
「え?」
「夢に出てきたわ。あんたがすぐ近くでシャドーしている姿が」
「ホンマか?」
「ホンマや。あ、ということは、ホンマにやってたんやな? 道理で寝苦しいと思ったわ。ほんま迷惑な話や。やっぱり夢やなかったんやな」
おかんが笑う。つられておれも笑ってしまった。泣き笑いだ。親子でこうして笑い合うのはいつ以来だろう。
「安心したわ」
「え?」
「強くなったな」
「……」
「おかあちゃんがこんなことになったのに、あんたは自分がせなアカンことをわかってる……ほんま強くなった」
「……」
「安心した」
「……」
ふと、おかんがこのまま遠くへ行ってしまうのでないかという不安に襲われた。
「カズ、もう一回投げてみてくれへんか?」
「うん」
おれはシャドーピッチングを披露した。
「ほんま、おとうちゃんにそっくりや。あんた、物凄いピッチャーになるわ」
そう言うと、おかんはリモコンを操作し、ベッドを倒していく。
「ちょっと眠るわ」
おかんはゆっくり目を閉じた。
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