四十三
硬球をレンガに直接ぶつけると、すぐにボロボロになるので、おれはレンガにゴザを引っ掛け、マジックで的を描き、そこへ向かって投げ込んだ。
硬球は手にズッシリくる分、おれにとっては投げやすかった。軟球は軽すぎたのだ。軽いため、余計な力が入ってしまっていた。反対に硬球は重い分、自然に力を抜くことができた。その結果、今までよりキレがあって重いボールが行くようになった。縫い目に指がかかり、手離れもよかった。コントロールは相変わらずだったが。
テストまであと三日。三日しかないのに、おれはまだ軟球で練習しようとしていた。バカだ。テスト本番は硬球での投球になるというのに。やはりおれにはおかんが必要だ。
おれは投げ続けた。
テスト前日、島田に打診してみた。おかんの外泊を。脳に転移したといっても、痛みはなく、自覚症状もないようだ。脳癌とは呼ばないらしく、いわゆる「脳腫瘍」という言い方をするらしいのだが、できる箇所によっては痛みが出ないそうで、おかんの場合がまさにそれだった。モルヒネを射っていることもあってか、腰や足の痛みも出ていない。不思議と副作用も治まっていた。
島田はしばらく考えていたが、一泊だけ、それも夕方から翌朝までという条件で許可を出してくれた。
外泊の日をいつにするかは、日中の調子が良い日を選ぶことにした。体調が良い日に、島田のゴーサインが出ることになった。
おれは、テスト合格発表の日と外泊日が重なればいいなと思った。それがまさに理想だった。おかんの病気が劇的に回復に向かうかもしれない。
それと、おかんに実際投げるところを見てほしいという想いもあった。十二月も半ば近くになり、冷え込みもきつくなってきたので、数球しか見せられないが、とにかく見てほしかった。小学生が、運動会での活躍を親に見せたいと願う感覚に似ていた。
おれは部屋を掃除し、ガラにもなく花を買い、飾った。いつ、おかんが帰ってきてもいいように……。
テストの朝、おれは軽く練習した後、おかんの病室を訪れた。おかんは薬のせいか、眠っていた。
「おかん、行ってくるわ」
おれは、ガキの頃からずっと使ってきた軟球をおかんの手の中に入れた。その瞬間、おかんの手に力が入り、ボールを握る。
「ほな!」
おれはダウンのポケットにさっきまで練習で使っていた硬球を入れ、それを握り締めながら、テストが行われる球場へ向かった。
テストの出来は散々だった。親父そっくりのフォームでかなりのスピードボールを投げられたが、ストライクが全く入らなかった。打者五人と対戦し、五つのフォアボール。
ただ、自分のピッチングはできた。二十球投げて全部ボールだったが、大きく外れたわけではない。伸びのあるボールを投げられた。だが、ボール球はボール球だ。もっともっと練習しなければならない。
それでも望みはあった。球速は、テストを受けた者の中で一番出ていたし、おれはまだ若いため、将来性を買ってくれる可能性もあったからだ。
しかし、叶わぬ夢だった。その日の夕方に発表された合格者の中に、おれの名前はなかった。
やはりショックだった。不合格になったこと自体よりも、おれが不合格になったことで、おかんの病気が悪化するかもしれないと思うと、そっちの方がおれを落胆させた。
それでもおれは、おかんに報告へ向かった。
道中、おれは今後のことを考えた。そしてすぐに結論を出した。アルバイトをしながらプロを目指す。今年はすでにプロテストは終了しているから、仕方なく社会人チームのテストを受けたが、何もまわり道する必要などないのだ。人生ナナメもあり、だ。
野球が好きなら、プロでも社会人でも草野球でも、何でもいいと思う。でも、本当に野球が好きなら、プロでやりたいと思うだろうし、本当に野球を愛する者のみがプロでプレーできるはずだ。おれは野球が好きだ。愛している。だからこそ、プロでやりたい。一番レベルの高いところで投げたい。
卒論を書き上げ、卒業し、その後はアルバイトに就く。正社員だと練習時間が満足に取れないだろうからだ。日雇いの肉体労働でも何でもいい。いや、むしろその方が、日当はいいし、トレーニングにもなる。日当が多ければ、漢方を買う余裕も出てくるし、おかんの治療費の足しにもなる。
治療費といえば、たった二ヶ月だけでもかなりの金額になっているが、すべて保険で賄えていた。まさか、こうなることを予想して保険に加入していたわけではないだろうが……。いや、こうなることを想定して加入していたのだ。おれが困らないように。
生命保険にも多数加入しているはずだ。おれが路頭に迷わないように。
おかんは、この二十年間、ほとんど休みなく働いてきた。もちろんこの馬鹿息子を養うためだが、給料から必要最低限のお金を除くと、残りはすべて保険にまわしていたようだ。
自分が病気になったり、亡くなった時、おれが路頭に迷わないように……。
いざという時のためにおかんは色々なものを犠牲にして働き続け、備えてきた。無理もしてきた。しかし、その無理がたたり、病気になったとなれば本末転倒というか、皮肉な話だ。
それでもおかんは言うだろう。「一生懸命生きてきた結果や。悔いはない」と。
病室へ行くと、おかんが笑顔で迎えてくれた。
「一生懸命やった結果や。まあ、せやけど、良かったがな。ナナメに進んで来年いきなりプロ目指したらええがな」
「……」
おかんはすべてお見通しだった。おれがテストに落ちたことも、そしてナナメに進もうとしていることも。ナナメに進むということは、真っ直ぐ行く者の何倍もの、いや、何十倍もの努力が必要となる。おれがその覚悟を決めたことを、おかんは見抜いていた。
「そのつもりなんやろ?」
「うん」
おれは力強く頷いた。
「そうか、安心した。あんたは大丈夫や。ほんまに強くなった」
おかんは笑顔でそう言うと、
「ちょっと寝るわ」
と目を閉じた。すぐに寝息が聞こえてくる。
まるでタイミングを見計ったように島田が入ってくる。
「カズ、おかんは、おまえがテストを受けている時間帯、ずっとボールを両手で握りしめて祈ってくれてたぞ」
「……おかん」
「ちなみに、おまえがテストに行く前、ここを訪れた時、おかんは実際は起きてた」
「えっ?」
「というか、昨夜から一睡もできんかったみたいやな」
「……」
「眠ってるフリしたのは……おかんのことや、起きてたら色々とアドバイスしてしまうやろ? そうなると、おまえに余計なプレッシャーを与えてしまうと思ったからや」
「……おかん……ほんまに心配ばかりかけてるな……病気のおかんに気を遣わせて……ごめんな」
穏やかな寝顔だった。笑っているようにも見える。
「カズ」
「はい」
「この二、三日、バイタルは安定してる。寝不足やから、明日の朝までこのまま眠り続けると思うけど、明日か明後日あたり、外泊許可出そか」
「ほんまですか?」
島田が頷く。
「よっしゃ!」
思わずガッツポーズをつくっていた。
古くて狭い団地だが、おかんとずっと暮らしてきた我が家で、外泊というかたちだが一緒に過ごすことができる。
クリスマスには少し早いが、パーティーのように賑やかに過ごそうとおれは思った。
「ほな、部屋の掃除とかありますんで、帰りますわ。おかんをよろしく頼みます」
「まかせとけ!」
おれはもう一度おかんの寝顔を見た。本当に穏やかな寝顔だった。まるで、もう何も不安なことはない、心配事はないと言っているようなそれだった。
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