四十四
翌朝、おれは朝から部屋を掃除した。おかんがいつ帰ってきてもいいように。そして公園へ行き、トレーニングをし、ピッチング練習をした。
昼になったので、おれは牛丼屋で昼飯を食い、その足で花屋へ向かった。新しい花を買おうと思ったのだ。おれは迷った末、ピンクのマーガレットを買った。それを見ていると、おかんが少女のように喜ぶ顔が頭に浮かんだのだ。
おれは、マーガレットを食卓の真ん中に飾った。
「おかん喜ぶかな? ガラにもないことしてって笑うかもな」
と独りごち、そろそろ病院へ行こうかと準備を始めた時、携帯が震えた。
病院からだった。
おかんの外泊が正式に決まったのかなと思いワクワクしながらも、病院からの電話ということで、少しだけ嫌な予感を覚えながら、おれは通話ボタンを押した。
「カズ、今すぐ来い。いや、慌てんでええから。とにかく来てくれ」
島田は冷静な声音だったが、それだけに事は重大なのではと思わせた。嫌な予感が当たった気がした。
慌てるなと言われたが、そんなことを言われて落ち着いていられるほどおれは大人じゃない。椅子の背に掛けていたダウンをひったくるように取ると、それを羽織り、おれは玄関へ向かった。
途中、視線のようなものを感じ、振り返る。
ピンクのマーガレットが寂しそうな表情でこちらを見ていた。
病院までダッシュで五分。ほぼ全力疾走。五分も全力で走れば息があがるはずだが、トレーニングのおかげか、はたまたアドレナリンが出ているせいか、おれの息は全く乱れていなかった。
おかんの病室へ行くと、予想していた光景とは異なり、おかんはいつものようにベッドで静かに眠っていた。
ただ少し違うのは、人工呼吸器が装着されていることだ。ベッドの傍らに立つ島田が説明してくれる。
「昨日のあの段階から眠り続けてる。今朝方、看護師が起こしにきたんやが、声をかけても、体を揺すっても反応せんのや」
「……」
「そうこうするうち、血圧が下がって、呼吸が弱くなっていった」
「だから人工呼吸器を?」
島田は頷き、
「状態的には……まだ五十やが、老衰のような感じや」
「……」
島田の言うように、おかんはまだ五十歳だ。だが、その年齢以上におかんは苦労してきている。「そんなもん、苦労でも何でもないわ!」とおかんは言うだろう。しかし、おれのせいで命を削ってきたことは事実だ。
「このまま目を覚まさずに、そのままってことも……」
「隠しても仕方ないから言うが、充分その可能性はある。徐々に血圧が下がってきてるし、脈も弱くなっていってるからな」
「……なんでや、先生! 昨日の時点では、今日か明日にも外泊できるって言うたやないか!」
島田を責めても仕方ないことはわかっている。だが、言わずにはいられなかった。
「こんなこともあるんや、カズ。これが癌という病気なんや。もっと言うと、人の命というもんなんや」
「……わかってる。でも……」
島田が黙って肩を抱いてくれる。昔ラグビー選手だった島田の手は、外科手術をする人間とは思えないほど分厚く、腕は太かった。体の厚みもある。
おれはその包み込まれるような感触に、思わず涙腺が緩みそうになった。
「せやけど、あきらめたらアカン。特におまえが一番あきらめたらアカン。おかんはそれ以前にあきらめてない」
「……はい」
おかんは生きようとしているだろう。蘇生しようとしているだろう。こんな馬鹿息子をほったらかして逝けるわけなどないと考えているはずだ。
おれももちろんあきらめたくない。おかんに戻ってきてほしい。そして、もっともっとおれを叱ってほしい。励ましてほしい。
ただ……一方で、老衰のような状態になるほどおかんは疲弊してきたのだと考えると、もうそろそろ楽にさせてあげたいという想いもあった。
恐らく今頃、親父に手招きされているのだろう。「カズはもう大丈夫だから、そろそろこっちで一緒に過ごそう」と。おかんは生きることをあきらめてはいないが、迷っているのも事実だろう。
この世にしがみつくことで、おれがいつまでも親離れできないことを危惧しているかもしれない。
「!」
おかんは昏睡状態の中でも、ボールをしっかりと握っていた。ガキの頃から、おかんとのキャッチボールで使ってきたボロボロの軟球。
おれの視線に気づいたのか、島田が言う。
「昨日からずっと握りっぱなしや。右手にだけ力が入ってる特殊なケースや。この状態では普通考えられへん」
「……おかん」
おかんはやはり生きようとしている。闘っているのだ。
「先生……おれ、投げてくる」
「ん?」
「ここでじっとしてても、おれは何もできん。信心のないおれが神に祈ってもご利益なんてないやろう。だから投げる」
「……」
「信心はないけど、野球の神様はきっとおる。だから、おれが投げることで、野球の神様がおかんに力を与えてくれるかもしれん」
「いや、野球の神様がどうこうより、おまえが投げることで、おまえの想いが直接おかんに届くかもしれへんな」
おれは頷き、
「ほな、おかん、投げてくるわな」
と、いつも自宅でおかんに言うように声をかけると、おれは病室を出た。
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