二十一

 おれの、絵に描いたような平々凡々とした学生生活は、まさに粛々といった感じで二年、三年と過ぎた。

 昨日が今日でも、今日が明日でも変わらない学生生活。単位だけは落とすことなく、きちんと取得していた。

 授業とバイトの繰り返しの毎日。年々、授業のコマ数は減り、その分、アルバイトの時間が増えた。二十四時間スーパーの品出しのアルバイトを三年もすると、バイトリーダーに任命され、四回生になった時には、店長に「うちの社員にならないか?」と言われるまでになっていた。四回生になる直前の春休みは、いつも通り京都の旅館でアルバイトをした。そこでも同じことを言われた。

 まわりは、三回生の秋頃から就職活動を始めていたが、おれはまだ動いていなかった。どこかに就職して、働くという行為がどうしてもイメージできなかったからだ。何かを見つけたい、見つけなければならないという強迫観念のようなものに襲われてもいた。

 だが、バイト先から、お世辞にも社員にならないかと言われ、せっかく大学まで行かせてもらったのだから、サラリーマンになって平凡に働くことも親孝行になるのではないかという気持ちになってきた。

 ただ、サラリーマンとして働いている自分の姿をイメージすることはできなかったが……。

 それでも、サラリーマンになったらなったで、おかんも安心するのではないかという想いもあった。

 おれは就職活動を始めた。とにかく書類を送りまくる。三流大学の文学部、そしておれの場合、単位の取りこぼしはないが評価は良か可ばかりだし、クラブ活動もしていない。したことと言えばバイトくらいのものだ。チャリンコで日本一周したわけでもないし、ボランティアもしていない。おまけに人相がそんなに良くない。大学に入ってからも坊主頭を続けていたし、写真うつりも悪かった。

 だからというわけではないだろうが、ほとんどの企業から書類が戻ってきた。

「不景気やからなぁ。採用人数も少ないんやろ」

 とおかんは慰めてくれた。

「少ないのは少ないけどな。でも、受かる奴は受かってる。うちの学校でも結構内定は出てるからな」

 事実だった。大学生活を通し、チャラチャラと遊んでいた奴に限って、早々と内定を貰い、また遊び呆けていた。要するに要領がいいのだろう。

 それに対し、おれは不器用だ。書類も本音で書いてしまう。たとえば、性格の自己分析の欄。おれは馬鹿正直に、「短気で飽きっぽい」と書くし、大学時代打ち込んだことの欄には、「特になし。休みにはアルバイトをしていた」と書く。おれが企業の人事なら、そんな学生は採りたくないと思うだろう。だが、わかっていてもおれには嘘を書くことはできなかった。

 しかし、そんな中、物好きなことに、書類選考に通過させてくれた企業があった。地元資本の百貨店だった。はじめての面接。おれは、入学式の時に新調したスーツを着て面接に臨んだ。

 太っている時に買ったスーツはブカブカだった。案の定、面接でそのあたりのことを突っ込まれた。おれは答えた。「おかんが……いや、母親が、何でも大きめ買いって言うんですわ。まだまだ成長すると思ってるんです。だから、ブカブカなんです」と。面接官たちは爆笑していた。座が和んだ。おれもついつい饒舌になった。

 大阪人だから、人を笑わせることに快感を覚えるのだ。ましてやおれは、笑いというものに幼い頃から慣れ親しんできた。それは、そのあたりのガキがお笑いに接するのとは違い、ある意味プロより面白い素人が集まる叔母の店で笑いに接してきたのだ。

 だから、笑いを取るとついつい饒舌になり、より大きな笑いを欲してしまうのだ。

 おれは面接官たちを散々笑わせた後、「このスーツも、こちらで買ったんです」と言った。それが決め手となったかどうかはわからないが、二次、三次とクリアし、最終面接も突破、見事内定を手に入れた。最後の夏休みに入る前日のことだった。

 おかんは喜んでくれた。お祝いやと言い、串カツ屋へ連れて行ってくれた。いつかのことがあるので、おれが奢るわと言うも、「アホ、あんたのお祝いや」と取り合ってくれなかった。

 ビールで乾杯したが、おかんはほとんど串カツを口にせず、ビールも口を湿らせた程度で飲むのをやめ、じっとおれの旺盛な食欲を眺めていた。

「なんや、おかん。食べへんのかいな」

「うん。あんたの食べっぷり、飲みっぷりを見てるだけでお腹いっぱいになる」

「そうか? そういえば、ちょっと痩せたんちゃうか?」

「そやろ? ダイエットの成果やな」

「ダイエットしてたんかいな」

 おかんとは食事の時間が違う。おかんは相変わらず毎晩帰りが遅かったし、おれは夕方メシを食ってから朝方までバイトをしていた。

「うん。そやけど、あんた、お酒強くなったな」

「毎日飲んでたらいつの間にかな」

 おかんの作ったおかずとビール、それが夕飯の定番だった。最初はただ苦いだけの飲み物だったが、喉でビールを体感する喜びを発見してからは、ほぼ毎日飲んでいる。遺伝もあったのか、飲んでいるうちに強くなっていった。

「明日からまた京都へ行くんか?」

「うん。来年の春休みはバタバタするやろうから、この夏で旅館のバイトも終わりやな」

「そうか」

 おかんが一瞬寂しそうな、あるいは不安そうな目になったような気がした。だが、気のせいだったのか、すぐに笑顔に戻っていた。

「それにしても、あんたがデパートに就職するなんてなあ。驚きやわ」

 感慨深げに言う。

「なんでや?」

「だって、この前まで『おかあちゃん』て言うて胸に飛び込んできてたのになあ」

「何年前の話や」

「つい最近やがな。ほんの二十年前の話や」

「ひと昔もふた昔も前やがな!」

 おれは、おかんとベタなやり取りをしながらも、おかんに感謝していた。この二十年間、おかんは女手ひとつでおれを大きくしてくれ、大学まで行かせてくれたのだ。

 酔いにまかせて礼を言おうかなと思ったが、照れ臭くてやめた。

 

 翌朝起きると、おかんはもう仕事に出ていた。そう言えば、ハルカはこの夏は帰阪しないそうだ。医大は六年制だが、四回生ともなると、臨床実習がびっしりと入り、まとまった休みが取れないらしい。それでも、数日の休みを利用し、帰阪すると言っているそうだ。

 おれは、おかんが昨夜、寂しそうにしていたのは、ハルカが例年のように帰ってこないからだろうと思った。

 おれは、「ほな、行ってくるわ。また二ヵ月後に!」という置手紙を残し、京都へ向かった。

 京都の旅館では、社長自らが、「うちへ就職しないか?」と言ってくれた。半分その気になりかけたが、丁重にお断りした。地元の百貨店にはすでに入社承諾書を提出していた。不義理をするわけにはいかない。

 アルバイトは快適だった。力仕事ばかりで体力勝負だったが、環境がいいためか、気持ちよく働くことができた。

 一ヶ月が過ぎた頃、旅館に電話がかかってきた。おれは携帯電話を持っていない。今時珍しい人種だろうが、必要ないから持たないだけだ。友達もいなかったし、彼女もいない。おかんは仕事柄携帯を持っているので、用事がある時はこちらからは連絡が取れる。ただ、ここ数年、電話でおかんと話したことはなかった。生活サイクルは違っていたが、ひとつ屋根の下に住んでいるのだから当然と言えば当然かもしれない。

 おれは休憩室の電話を取った。

「おかん、どないした?」

 てっきりおかんからだと思ったが、そうではなかった。

「……わたし……ハルカ」

「……お、おお……な、なんや、おまえか」

 戸惑ったおれは、ついついどもってしまった。

「悪かったね、わたしで」

「いや、別に、そういう意味じゃ……」

 おれは動揺していた。久しぶりに聞くハルカの声に、緊張もしていた。

「就職おめでとう。デパートやってね」

「お、おう、まあな」

「いいの、それで?」

「えっ?」

「ううん、何でもない。ところで、やっぱり九月の終わりまでこっちへ帰って来ないの?」

「何でや? ていうか、こっちって、おまえ今、大阪か?」

「うん、今から夜行バスに乗って東京へ戻るんやけど」

「そうか……おかん、喜んでたやろ? おまえが長い休み取られへんから寂しがってたぞ。おれがこっちへ来る前の晩も、串カツ屋で……」

「おばちゃんのことやけど」

 ハルカがおれの言葉を遮り言う。

「ん? 何や、どないした?」

「久しぶりに会ったら様子が違うから」

「ん? どう違うんや?」

「食事もあんまり摂らへんし、前と比べて痩せたみたいやし、仕事もセーブしてるみたいやねん」

「……」

 おかんはダイエットをしていると言っていたし、痩せたのはその成果だろうし、仕事をセーブしたのは、多分、おれも就職が決まり、そこまであくせくして働かなくてもよくなったからだろうと思った。そもそも、今までの仕事量が尋常ではなかったのだ。

 それをハルカに言った。

「それやったらいいんやけど……」

「大丈夫や」

「一日だけでも帰って来られへんの?」

「……」

 帰ってもおまえに会われへんやろ?という言葉を呑み込んだ。デパートに就職が決まったことで、多少心に余裕が生まれたのだろうか。今ならハルカに会えると思った。

「無理やな。これでも一応重宝されてるんや。それに、この夏でこのバイトも終わりやからな」

 帰ろうと思えばいつでも帰れる。京都と大阪は目と鼻の先だ。

「……わかった。とにかく、たまには、おばちゃんに連絡してあげてね」

「わかった」

 電話が切れた。ツーツーという無機質な音をしばらく聞いていた。ハルカに会いたい、そう思った。

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