三十六

 相変わらず、おれは今までに経験したことのない厳しいトレーニングを自らに課していた。病院へは毎日見舞いに行くのだが、その見舞いの席で居眠りしてしまうほど、おれは疲れきっていた。だが、トレーニングは全然苦ではなかった。

 好きなことなら、好きなことのためなら、努力も苦ではないということか。いや、そもそもおれには努力などという認識はなかった。おれにあるのは、「現状維持」からの脱却だった。ある意味、おかんと競争しているような気持ちになっていた。

 そして、おかんもおれと同じ感情を抱いているようだった。見舞いの最中、眠ってしまったおれが目覚めると、「あんたが居眠りすればするほど、刺激受けるわ。それだけがんばってるという証拠やからな。負けてられへんって思うわ」と言うからだ。

 抗癌剤に慣れたのか、漢方の効き目もあるのか、おかんは副作用に悩まされることも少なくなっていった。ただし、膵臓の癌は小さくなっておらず、予断を許さない状態が続いていた。

 ある日、おれは島田に尋ねた。

「先生、おかんは、今は体力も回復しているみたいやし、膵臓の癌を手術で取り除くことはできないんですか?」

 島田はしばらく思案顔をした後、訊き返してくる。

「どないした? あんなにおかんの体を切り刻まれるのを嫌がってたおまえが……」

「……」

 島田にそう言われ、ハッとした。おれは何を焦っているのか。おかんの腹に刻まれた川の字の傷跡を思い出す。オペが可能なら、島田はとっくにそうしているはずだ。

「手術は無理や。これは決して逃げてるわけやない。膵臓という臓器の場所もそうやし……つまり、膵臓の癌を切除するということは、膵臓をほぼ全摘せなアカンということなんや。それは、今後あまりに体に負担がかかりすぎて、一気に衰弱しかねへん。それに、もし癌細胞だけを切除することができたとしても……まあ、それは今の段階では不可能なんやが……癌細胞はな、切ることで拡散する恐れがあるんや。そう、飛び散るという表現がわかりやすいかな。飛び散るというのは、血液なんかに乗ってあちこちに転移するということなんや」

「……」

「抗癌剤や漢方の力で、順調に癌細胞が小さくなったら、固めて何とか癌だけを取り除くことができるかもしれん。ワシはそれを狙ってる」

 島田が笑う。

「わかりました」

 おれは、改めて、自分一人が焦っていたことを自覚し、恥ずかしくなった。

「カズ!」

「はい?」

「明日、退院や!」

「ほんまですか?」

「ほんまや。ただし、週三日の診察と、週に一度の抗癌剤投与は欠かさんようにな」

「はい!」

 おかんが家に戻りたがっているのは知っていた。島田病院は居心地(?)が良く、安心できるのだが、やはり自宅の方が安らげるようなのだ。島田もそのあたりのことをよく理解していて、退院許可を出したのだろう。

 腎臓摘出手術から十日目、おかんは退院することができた。


 退院の日の朝、おれは約束どおり、杖を持っていかなかった。病室へ入ると、おかんはすでに着替えを終え、帰る準備万端だった。おれは家から持ってきた綿の入ったナイロンコートをおかんに手渡しながら、

「今日から急に寒なったから、これ着るとええわ」

 と言った。

 十一月の半ばとはいえ、真冬並みの寒波が大阪を襲っていた。

 おかんは素直におれの言葉に頷き、ベッド脇のソファから立ち上がろうとする。咄嗟に手を貸そうとしたが、おかんはそれを拒否した。

「杖の世話にならんのに、代わりにあんたの世話になってたら意味ないやろ」

「……」

 おかんがコートを羽織る。

「ほな、また明日。元気な顔見せてや!」

 島田の言葉におかんは笑顔で頷くと、先に立って歩きだした。

 だが、そのスピードはあまりに遅い。おれが意識してゆっくり歩いても追い越してしまう。しかし、それが今のおかんの精一杯のスピードなのだ。病室から病院の玄関まで直線で五十メートルの距離。その距離を歩くのに五分かかった。

 島田を振り返る。おれが杖を使わせないと決めたのに、そのおれが不安になったのだ。

 島田は大丈夫だとばかりに大きく頷いている。そして、胸の前で広げた掌を、二、三度下へ下ろす仕草をした。ゆっくりゆっくり行けということだろう。

 病院をあとにしたおれたちは、本当にゆっくりゆっくり前へ進んだ。おれはおかんの斜め後ろを歩いていたが、おかんが時々前のめりになって転びそうになるため、隣に移動した。だが、おかんは、おれを手で追い払う。仕方なく、おれはまた後方に下がる。

 最初おれは、おかんは意地になっているのだと思った。杖を持ってこなかったおれに対し、意地でも自分一人の力で自宅へ戻ってやるとアピールしているのだと。

 だが、必死に歩くおかんを見て、おれは違うと思い始めた。おかんはくだらない意地を張っているのではなく、闘っているのだ。自分に挑戦しているのだ。それと、願掛けのようなことをしているのかもしれない。これくらいの距離、自分の足で歩けないようだと決して全快はないと。

 同時に、おれに闘う姿を見せているのだ。おれに後ろへ下がれと命じたのは、もちろんおれの手を借りないという意思表示もあるだろうが、闘う背中をおれに見せるためだ。

 おかんは、どんな状況であれ、おれに手本を示してくれる。

 おかんは、まさに噛みしめるように、地面を踏みしめ、一歩一歩確実に歩いていく。

 不覚にも涙が溢れてきた。視界が滲む。すぐに涙を拭った。おかんの闘う背中を、姿を、一瞬たりとも見逃すわけにはいかない。

 前のめりになりながらも、時折強く叩きつけるように吹く風によろめきながらも、おかんは歩ききった。

 徒歩十分の道を一時間かけて歩き抜いた。

 また涙が溢れ出した。

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