三十七

 おかんは週に三日通院し、そのうちの一回は抗癌剤の投与に充てられた。体の状態はやはり一進一退で、それは、さっき調子いいと思っていたのに、今は微熱があって横になっているといった、そういう短いスパンでの浮き沈みがあり、予断の許さない状況だった。もちろん、意識を失ったりだとか、突然倒れるといったことはないため、じっと見ていないといけないといったことはなかったが、病院ではなく自宅のため、何かあってもすぐに処置できないという不安は常につきまとっていた。

 一方、トレーニングの甲斐あって、おれの下半身はかなり強化されたが、なかなか以前のようなボールは投げられないでいた。だが、十二月はじめの社会人チームのテストは受けるつもりだった。プロ野球のテストはすでに終わっており、その社会人チームのセレクションが今年のラストチャンスだった。

 おかんは、おれがどれだけのボールを投げられるようになったか見たいと言ったが、おれはそれを強く拒否していた。

 まだまだおかんに見せられるボールではなかったし、何よりおかんが風邪をひくのが怖かったのだ。

 島田にもきつく言われていた。癌患者にとって風邪は大敵だと。風邪菌が体に入り、リンパを冒すことで、弱くなったリンパを狙って癌が転移する恐れがあるからだそうだ。今の状態で、リンパに転移することは死を意味すると、島田から、脅しじゃないぞと前置きされた上できつく言われていた。

 だからおれは、おかんをできるだけ外に出さないようにしていた。もちろん、外出を一切させないわけではなかった。そんなことをすると退院した意味がないし、外出できないストレスが病気を悪化させる。普段どおりの生活をしてはじめて、通院治療の意味があるのだ。

 だから、買い物や散歩には一日一回出かけていた。もちろん、おれはそれに付き添っていた。ただ、おれが投げる姿は見せなかった。一度見始めれば、一球や二球で済むはずがなかった。必ず最後まで見ると言うに決まっているからだ。

 おかんは最初不満そうな顔をしていたが、風邪のことを言うと、納得したような表情をした。少しの残念さを滲ませてはいたが。

「もうちょっとや。もうちょっとで何か掴めそうなんや。だから待っててや!」

「わかった。そら六年もブランクあるんや。そんな簡単にブランク埋められてみい、野球やってる人の値打ち下がるわ」

「そやな」

 おれは、焦るなと自分に言い聞かせ、トレーニングに励み続けた。


 そんなある日、おかんが言った。

「墓参りに連れていってくれへんか?」

「そうか、親父の月命日か……」

「うん。先月は手術やら入院やらで行かれへんかったからな、怒ってると思うわ。おねえちゃんも怒ってると思う。会いに行ってあげな……」

「怒ってないやろ。がんばってるおかん見て、応援してくれてるはずや」

「そやったらええけどな」

 おかんに厚手のコートを着せ、マフラーを巻かせた。小柄なおかんが着脹れすると、まるでダルマだ。だが、以前は着膨れしなくてもダルマのような体型だった。それを考えると、少し寂しくなる。

 おれもおかんに負けず、厚着した。おれが風邪をひくのもNGだからだ。狭い部屋に二人で住んでいるため、おれが風邪をひけば、おかんに百パーセントうつしてしまうだろう。

「タクシーで行こか?」

 おれの提案におかんは頷いた。この寒さの中、長い距離を歩くのはさすがにつらいと思ったのだろう。電話でタクシーを呼び、乗り込む。天王寺まで十五分で着いた。ただ、寺の境内まで車は入れず、すこし高台にある墓地まで歩かなければならない。

「おかん、大丈夫か?」

「何がや?」

 おかんは先に立って歩きだす。

「いや……」

 毎日外出しているおかげか、おかんの足取りはかなりしっかりしたものになっていた。退院直後のように、前のめりになったり、よろけることもなくなっていた。もちろん杖はついていない。

 本堂の裏手に十段ほどの石段があり、それを昇ると墓地が広がっている。広大だ。親父と叔母の墓は一番奥、つまり棚田のような墓地の一番上にある。

 おかんは、石段を一段一段ゆっくり昇り、墓地を望んでいる。初冬のやわらかい陽射しに目を細めながら、親父の墓の方向を眺めている。そのまま動かない。

「どないしてん、おかん?」

「……」

 突然おかんがしゃがみ込んだ。

「おかん、大丈夫か?」

 おかんの肩を支えるように掴む。

「……大丈夫や。ちょっと目眩しただけや」

「……」

 おかんは立ち上がった。立ち上がったが、そのまま動かない。墓の方をじっと眺めている。

「おかん?」

 おかんは返事をせず、しかし、おれの声に背中を押されるように、ようやく緩やかなスロープを軽い足取りで歩き始めた。

「!」

 なぜか、まるでおかんがそのまま墓に入ってしまいそうな気がした。そんな幻覚も見えたような気がした。おれは慌てて頭を振り、おかんを追いかけた。

「ごめんな、おとうちゃん、おねえちゃん、先月来られへんかった」

 おかんが水に浸けた手で、墓石をやさしくさする。何度も何度もバケツに手を突っ込み、冷たい水を掌に含ませ、墓石をさする。おかんの手はあっという間に真っ赤になる。いつの間にかバケツは空になっていた。おれは水を汲みに行った。その間もおかんは、愛おしむように、墓石を撫でていた。

「おかん、もう、そろそろ……」

 三杯目のバケツが空になりかけた時、おれは言った。おかんの体調が心配だった。まだ昼間だが、あたりはかなり冷え込んでいる。そして、おかんはコートを脱いでいる。コートを着たままでは、親父と叔母に失礼だと思っているのだ。おかんはそういう人だった。

「うん、そやな」

 おかんはそれでもしばらく名残惜しそうに墓石を撫でていたが、やがて花と缶ビールを供えると、線香に火をつけ、手を合わせた。

 おれもそれに倣う。

 おかんは長い間、手を合わせていた。

「カズ、ありがとう」

 おかんが不意に言い、立ち上がる。

「もう、ええんか?」

「うん。ありがとう」

 おれはおかんにコートを着せた。

「親父、なんて言うてた? 怒ってなかったやろ?」

「うん、怒ってなかった」

「長いこと手ぇ合わせてたけど、なんて言うとったん?」

「カズを強い男にしてくださいってお願いした」

「またかいな。ずっとそれや。この前は、強くなったって言うてくれたがな」

「うん、おとうちゃんも言うてた。『カズは強くなった。もう大丈夫や』って」

「そやろ? おれは強くなったやろ?」

「うん、だからおとうちゃんはこうも言わはった。『カズはもう大丈夫やから、おまえも早くこっちへ来い。おまえはもう充分がんばった』って」

「え? マジかいな?」

「マジや」

 おかんが親父の墓を振り返る。

 不意に不安に襲われたおれは訊いていた。

「で、おかんはなんて答えた?」

「まだまだ弱いカズが心配です。だから、もうちょっとこっちにいますって」

「……そうか」

 安心したおれは笑顔になり、

「まだまだ親父には渡せへん。おかんには病気を治してもろて、もっともっとおれを叱咤激励してもらわんとな」

「アホ、早くしっかりしてや!」

 

 本堂まで歩いた時、おかんが言った。

「タクシー呼ばんでええわ。歩いて帰ろ」

「……わかった」

 二ヶ月前、こうして墓参りした後、同じように歩いて自宅まで帰った。動物園に寄り、新世界へ行き、通天閣にのぼった。思えば、あの頃にはもう、おかんの体は病魔に冒されていたのだ。

 あの時、おかんは目眩がすると言って、通天閣の展望台までは上がれず、串カツも食べられなかった。おかんもそれを思い出していたのだろう、口を開く。

「通天閣のぼって串カツ食べよか!」

「……ええな」

 だが、それは今回も叶わなかった。

 おかんが少し歩く度に、うずくまるのだ。

「大丈夫か、おかん?」

「ちょっと目眩がしてな」

 おかんの額に脂汗が浮かんでいる。

 おれは、うずくまるおかんが落ち着くのを待って、おかんの手を握り、支えるようにして立たせた。

「!」

 おかんの手がやけに冷たかった。ついさっきまで冷たい水に触れていたせいだけではないような気がした。

 タクシーを止める。おかんは素直に乗り込んだ。

「病院行こか?」

 おかんは首を横に振った。

 おれは、この前の脳貧血のこともあるので、おかんの症状が気になった。

「一応、病院行こや」

「いや、大丈夫や。自分の体のことは自分が一番ようわかる。昨日、抗癌剤投与したからその副作用が出てるんや」

「……」

 次の診察日は二日後だ。

「わかった。とりあえず帰ろ」

 おれは運転手に自宅の場所を告げた。

 道が空いていたこともあり、あっという間に到着する。

 おれが代金を払っている間、おかんが歩いていく。だが、足がフラフラだ。おれは急いで駆け寄り、腕を組むように、おかんの肘のあたりを掴んだ。

 以前なら……いや、つい数時間前までのおかんなら、おれの手を振り解いたことだろう。そして、「病人みたいな扱いしぃな!」と怒ったはずだ。

 それが今は素直におれに体重を預けている。

 悲しいような、嬉しいような、寂しいような、複雑な心境で、おれは団地の階段を昇った。

 部屋へ到着すると、安心したのか、おかんはすぐに眠ってしまった。

 おれは島田に電話をかけた。たまたま診察の合間だったようで、話すことができた。

「意識を失うことはないんですが、目眩がするって言ってうずくまって、かなりつらそうなんですわ」

 島田はしばらく黙っていたが、

「その他の症状は?」

 と訊いてきた。

「かなり体が冷えているようです」

「風邪はひいてないやろな?」

「ええ、それは大丈夫だと思います」

「カズも風邪ひいたらアカンぞ」

「はい……先生、おかんは大丈夫ですか?」

「……明後日か、診察日は?」

「はい」

「もし、何度も同じような症状が出るようやったら、今日でも明日でも連れてきたらええ。時間は気にせんでええからな」

「どっか悪いんですか?」

「何とも言えん。痛みは?」

「今のところ……」

「そうか……カズ!」

「はい!」

「前も言うたけど、癌という病気は、一進一退を繰り返すし、変化しやすいもんなんや。つまり、明日良くなることもあれば、その逆もある」

「はい」

「一瞬一瞬を大事にせえよ。まあ、病気やのうても、親や家族は大事にせなアカンねんけどな」

「はい」

 妻を癌で亡くし、そのことに対して後悔だらけの島田の言葉だけに、重みがあった。

 電話を切ったおれは、トレーニングに出かけた。

 おかんに早くおれらしいピッチングを見せることができるように、後悔しないよう、体を苛め抜いた。

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