三十八
翌日、おかんはなかなか起きてこなかった。
おれたちが住む団地は2LDKで、おれとおかんのそれぞれの部屋は襖一枚で隔てられているだけだ。そして、腎臓の手術をしてからというもの、襖は取っ払ってあった。布団をくっつけて眠るわけではなかったが、おれとおかんはひとつの部屋で寝ていた。
おれは今日あたり、日雇いのアルバイトに行こうと思っていた。自宅から徒歩五分のところに「あいりんセンター」という日雇い専門の職安のような場所があった。そこへ行き、正式に手続きすれば仕事を斡旋してくれるのだが、その手続きが面倒臭い。だから、あいりんセンターのまわりをウロウロするのだ。そうすると、手配師が声をかけてくる。特におれのように若くてガタイが良い人間に限っては売り手市場なのだ。
アルバイトをしようと思ったのは、漢方がそろそろ切れるからだ。治療費は、おかんが若い頃から保険に入っていたため、今のところそれで賄うことができている。だから、せめて漢方だけはおれが稼いだ金でプレゼントしたいという想いがあった。ただ、おかんを置いて出かけるのが少し怖かった。昨日のこともある。だから、おかんの体調をこの目で確かめてから判断しようと思い、おれは早起きし、おかんが起きるのを待っていた。
だが、なかなかおかんは起きてこない。遅くとも七時には起き出してくるおかんなのに、もう八時近い。
バイトに行くならもうそろそろ出かけなければ間に合わない。仕事にありつけなくなる。いや、それ以上におかんが心配だった。
おれはリビングとおかんの部屋を仕切るドアをそっと開けた。
「!」
おかんは布団の上に座っていた。
拍子抜けしたおれは、
「なんや、起きてたんかいな!」
と呆れた声を出していた。
「ああ、おはよう」
振り返ったおかんが爽やかな笑顔を向けてくる。
「なんやねん、心配したがな!」
「え? なんでや?」
「起きてこんからやないか!」
おかんが壁の時計に目をやる。
「まだ八時やないの」
「八時やけど……」
おれは、「病人やから、いつもの時間に起きてこんかったら心配するんや」という言葉を呑み込んだ。おかんにあえて「病人」ということを意識させる必要はない。かわりに、
「年寄りは早起きやのに、遅いなと思ったんや」
と言った。
「誰が年寄りや! まだ五十路や!」
「元気そうやな。ほな、バイト行ってこよかな」
「……そうか……なあ、カズ」
「ん?」
「一生のお願いあるんやけどな」
「え?」
「あんたは人生何回あるねんって思うほど、何度も何度も一生のお願いしてきたけど、おかあちゃんはまだ一度もしたことないやろ?」
「……まあ、そやな」
おれは、一体どんなお願いをされるのだろうと身構え、訊ねた。
「で、そのお願いって何やねんな?」
「うん……あんたが投げるとこ、見せてほしいねん」
「……」
「アカンか?」
「いや……アカンことないけど……」
「あんた、まだ本来のピッチングができひんって言うてたし、もうちょっとできっかけ掴めそうやから待っててくれって言うてたから」
「うん、もうちょっとで掴めそうなんやけど、時々、このままずっと掴めそうにない気もする」
思わず弱音を吐いてしまう。まだまだおかんの前だと甘えてしまうようだ。
「そうか……」
「……」
おれは、おかんがなぜそんなにおれのピッチングが見たいのかを考えた。単純におれのことが心配なのだろうか。それとも、あまり考えたくはないが、おれが本来のピッチングを取り戻すまで、自分は元気でいられないとでも考えているのだろうか。
迷った。おれが本来のピッチングを取り戻し、それをおかんに見せ、おかんを元気にしたいという想いがあった。だから、今見せるのは本意ではない。
しかし、おかんが一生のお願いとまで言い、見せてくれと頭を下げている。
おれは決断した。
「アカンか?」
「……わかった。ええよ」
「そうか!」
おかんはまるで少女のように顔を綻ばせた。
バイトに行くのをあきらめ、おれは午前中を基礎トレーニングの時間に充て、午後から投げ込みをすることにした。いつもは夕方に行うのだが、比較的気温が高い日中の方がおかんにとってはいいと判断したのだ。
トレーニングを終え、部屋へ戻ると、おかんがカレーを作って待っていてくれた。
「おおっ、カレーやん!」
「あんた確信犯やろ。食材あんなに溜めて」
「へへへ、バレたか」
「当たり前や。それにしても、まるでステーキかすき焼きの時にするリアクションやな」
おかんが呆れたような笑顔を見せる。
「おれにとっては、ステーキやすき焼きよりカレーがご馳走なんや」
ジャージの上を脱ぐや、おれはテーブルについた。
「アホ、手ぇ洗わんかいな!」
おかんが頭を張る。
「痛いなあ」
頭をさすりながら洗面所へ行く。
おかんに頭を張られるのも久しぶりだ。なんだかおれは嬉しかった。
トレーニングの後ということもあり、空腹のピークだったおれは、カレー三杯を一気に平らげた。
おかんはそんなおれを、向かいの席から楽しそうに、まるでスポーツ観戦でもするように見ていた。
幼い頃を思い出す。何でもモリモリ食べるおれを、おかんは楽しそうに眺めていたものだ。
おかんは流動食だったが、ともに食卓を囲んでいるという事実が嬉しかった。
やっぱり自宅はいいと思った。古い団地だったが、おかんと親父が結婚とともにここに住み始めたこともあり、おれはこの団地以外で生活したことがない。
親父は、おれと一緒に大きな庭付きの家を建てたいと言っていたそうだ。二人で木を切るところからはじめ、カンナをかけ、釘を打ち、ペンキを塗り……。だが、親父はおれが物心つく前に逝ってしまった。
そして親父は、庭でおれと野球をするのが夢だったらしい。映画のフィールド・オブ・ドリームスの世界だ。
おかんは、親父の、家を建てたいという夢を引き継がなかった。それはもちろん、経済的な理由からではなく、親父と生活を始め、そしておれが生まれたこの団地で生きていきたいと願ったからだ。
おれは家なんて、生活できればどんなものでもいいと思っていた。家族が集まれる場所ならこんなちっぽけな団地でもアパートでも何でもいいと。逆に、野球ができるような庭付きの豪邸だったとしても、それはそれでいいだろう。家族が集まれれば。
外見、外観ではなく中身なのだ。
親父が亡くなり、おかんとおれの二人だけの家族だが、数年とはいえ、親父とおかん、そしておれの三人で過ごした自宅であることは事実だし、おれはこの家が気に入っていた。
この家から、おかんがいなくなることは想像できない。考えたくもなかった。
食事を終え、リビングでストレッチをしているおれに、おかんが言った。
「そうやって柔軟している姿はおとうちゃんそっくりや。おとうちゃんも体柔らかかった」
「そうなんや」
「うん。柔らかかったけど、手入れを怠ったら怪我をしやすい体になるって言うて、いつも入念に柔軟運動してたわ」
「そうか」
別に霊的な意味ではなく、ふとした拍子に親父の影を感じることがあった。特に野球をしている時だ。いや、親父の影かどうかはわからないが、野球を始めた小学生の頃から、時々、急に自信や勇気のようなものが湧き出てくることがあった。昨日までと同じことをしているのに、突然自信のようなものが湧いてきて、昨日までできなかったことが突然できたりするのだ。
ストレッチを終えると、不意に、おかんにピッチングを見てほしいという欲求が湧いてきた。おかんの方からお願いしてきたのに、おれの方からお願いしたいくらい、突然見てほしくなった。これも親父の力だろうか。
「おかん、行こか!」
「よっしゃ!」
おれの言葉を待ち焦がれていたかのように、おかんは気合いを入れると、弾かれたように立ち上がった。
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