三十九

 昼間の公園は人っ子一人いなかった。もうすぐ師走だ。当然かもしれない。

 おれはおかんとここでキャッチボールをした。反抗期や思春期になり、親と一緒に行動するのが恥ずかしいと思う年代になっても、おれはおかんとここでキャッチボールをした。それはおれの大切な思い出であり、誇りだ。そして財産だ。

 そして今、おかんがおれの投げる姿を見てくれる。

 おかんが植え込みの隅に腰を下ろす。おれは、カマボコ板のプレートの少し前から、植え込みに向かって軽くボールを投げた。跳ね返ってくるボールを掴み、また投げる。肩ならしだ。

 それを五分以上繰り返した。

 ようやくプレートに足をかける。それでもまだ全力では投げない。冬場は念入りに肩を作らないと取り返しのつかないことになりかねない。ガキの頃、おかんによく怒られたものだ。十代で野球生命が終わっていいのなら、ケアは適当でいい、でも、ずっと野球を、それもピッチャーをやりたいのなら、肩を大事にしろと。野球チームの監督でも言わなかったことを、おかんは言ってくれた。

 結局、十代で野球は中途半端に中断し、二十二歳になろうとする今、再開した。いや、再開に向けてようやく歩き始めた。

 ふと思った。

 おれは六年間、野球から離れていた。当然、ボールを握らなかったし、投げもしなかった。ということは、六年というブランクはマイナスなだけでなく、肩や肘にとってはプラスだったのかもしれないと。使い減りしていないし、もちろん故障もない。

 プロ野球の世界にも、社会人から投手を始めてプロに入った選手がいた。その選手は、肩や肘が使い減りしていないからか、四十歳を超えても現役を続けた。

「プラス思考というか、楽天家やな、おれは」

 呟き、そろそろスピードを上げようと、八分の力で投げる。それをまた五分。

 かなり肩が温まってきた。全身にうっすら汗が滲んでくる。おれはジャージの上を脱ぎ、Tシャツ一枚になった。

 ふと、おかんを見る。おかんは微動だにせず、おれの一挙手一投足を見つめている。なんだか照れた。照れをごまかすように声を掛ける。

「おかん、寒ないか?」

 おかんが黙って頷く。

 おれは頷き返し、

「さあ、いくか」

 と呟いた。

 おかんが見ている。おれに野球を一から、いや、ゼロから教えてくれたおかんが見ている。

 さっきまでは照れ臭かったが、いよいよ投げるとなると、緊張感が襲ってくる。

「よし、ほんまにいくで!」

 おれは自分に勢いをつけるように声を上げると、そのまま一気に振りかぶった。左足を高く上げる。バックスイングを大きくとり、前に突き出した左手のグラブを引き寄せると同時に、柔道の背負い投げのように一気に前へ倒れこむようにして右腕を振る。おれのピッチングフォーム。豪快に投げ下ろす。リリースポイントも完璧だ。かなり前でボールを離せた。 

 そこそこスピードに乗ったボールが植え込みのレンガを直撃する。

「よし!」

 跳ね返ってきたボールを掴みながら、おかんをチラリと見る。

 おかんは何も言わず、じっとおれを見ている。

「なんかやっぱり緊張するぞ。テストみたいや」

 そういえば、本番のテストは来週だ。

 おれは振りかぶり、投げた。そこそこのスピードは出る。だが、「そこそこ」だ。おれは不満だ。フォームも悪くないはずだし、リリースポイントもいい。しかし、何かが足りない気がする。それが何だかわからない。わかりそうでわからない。この一ヶ月間というもの、フォームをいじったり、ボールを放すタイミングをずらしたり、踏み込む足の位置を変えたりと、色々試した。だが、答えは出なかった。というより、今のピッチングフォームに落ち着いた。しかし、不満だ。

 確かに、速い球を投げることだけがピッチャーの仕事ではない。百二十キロのストレートと九十キロのカーブだけで立派にプロでメシを食っている選手もいる。だが、おれはスピードにこだわりたかった。そして実際、おれは小学生の頃からスピードボールでならしてきた。スピードボールを投げられるのは素質だ。生まれ持ったものだ。つまり、おれにはその素養がある。選ばれた男なのだ。だが、スピードが出ない。

「カズ、ええボール投げてるがな!」

 おかんが言う。

「慰めはええよ」

 軽くいなし、投げる。ダメだ。棒球だ。

「慰めやないがな。ほんまにええボール行ってる」

「親の欲目や。親バカや」

「ちゃう。ボールに気持ちが乗ってる」

「気持ちが乗ってても、スピードが出てへん」

「確かにスピードはそこそこや。でも、気持ちが乗ったボールは打たれへん」

「……」

 おれは投げ続けた。おかんに腹を立てていた。腹を立ててはじめて、おれは答が欲しかったんだと気づいた。それなのに、おかんは変におれを褒めるばかりだ。

 一生のお願いとまで言い、おれのピッチングを見たいと願ったのは、お世辞を言うためだったのか。

 おかんはやさしいが、厳しい人間だ。褒めるべき部分があれば褒めてくれるが、悪い所があればきちんと注意し、叱ってくれる。その厳しさも結局はやさしさなのだが……。

 おれは投げ続けた。おかんは以来何も言わず、ただじっとおれの投球を見つめている。

 百球を越える。時間にして三十分弱。おかんが立ち上がる様子が視界の隅に入ってきた。

 一歩、二歩、前へ出てくる。しっかりした足取りだ。

 おれは投げ続けた。なぜか意地になったように投げ続けた。

 百五十球を越えた時、突然おかんが声をかけてきた。

「ヘソを一センチ下げる意識をして投げてみ」

「……」

「なに、アホみたいな顔してるんや。ヘソやヘソ。あんたのデベソや!」

「……デベソを……いやいや、ヘソを下げる? 一センチ?」

 おかんは満足そうに頷いている。

「難しいな……」

 そう呟きながらも、試してみたくなる。やはりおれはアドバイスが欲しかったのだ。

 だが、ヘソを一センチ下げることに意識を集中するあまり、フォームがグチャグチャになってしまった。

「ほんま不器用やな、あんた!」

「せやけど、ヘソを一センチ下げろって言われてもなあ……」

 おかんが首を振りながら近づいてくる。やはり、しっかりした足取りだった。昔を思い出す。

 おかんはおれの背後に立つや、

「ヘソを下げるっていうても、ヘソだけを魔法みたいに下げられるわけないやろ!」

 と言いながらおれの腰を掴み、押し下げた。弾みでジャージが脱げ、パンツが露になった。

「な、なにすんねん!」

 おかんが声を上げて笑いながら植え込みに戻っていく。

 おれはジャージを引き上げ、前紐を結びながら、懐かしい想いに包まれていた。

 ガキの頃、おかんは細かい指導はしなかったが、ポイント、ポイントでアドバイスをくれた。今のような「ヘソを一センチ下げろ」というようなものだ。時にわかりづらいこともあったが、一旦理解できると、おれのピッチングは見違えるようになった。

「全体に重心を下げろということか」

 おれは呟きながら、腰を下げるようにし、シャドーをした。重心を下げると、コントロールは良くなりそうだがスピードはどうだろう? 一瞬だけ疑問が脳裏を掠めた。

 しばらくシャドーをし、フォーム固めをした。

「よし、投げるか」

 カマボコ板プレートに足を載せる。振りかぶり、足を上げ、重心を低くすることを意識し、投げた。

「……」

 ボールは植え込みの手前でワンバウンドし、レンガに跳ね返り、土の上を転々としている。スピードを出そうと力みすぎたようだ。

「それでええ」

 おかんが言った。

 おれはボールを取りに走りながら、

「どこがや?」

 と怒鳴り返した。

「フォームや。それでええ。ちょっと力みすぎやけどな」

「……」

 図星だった。おかんは見抜いていた。

「気持ちが乗ってないからや。さっきまでは気持ちが乗ってたのに、フォームを変えた途端、それがなくなった」

「……」

「半信半疑やからや。自分のフォームを信じて投げてないからや」

「……」

 言われたとおりだ。おかんのアドバイスを受け入れながらも、少しだけ疑問が脳裏を掠めていた。スピードが出ないのではないかと。その半信半疑が力みとなって現れた。気持ちが乗っていなかった。それは、おかんを信じていないということだ。

 おれは、フォームを信じることにした。おかんを信じることにした。

 肩の力を抜き、カマボコ板プレートに足をかける。振りかぶり、重心を低くし、投げる。ボールの手放れがよくなり、キレが出たような気がした。スピードも出ている。コントロールは相変わらずだったが、今までよりはマシだ。ボールが吸い込まれるようにレンガに強くぶち当たる。

「!」

 楽だった。さっきまでよりスピードが出ているのに、体にかかる負担は軽くなっている。そして何より、ナチュラルなフォームになったような気がする。

 フォームを微調整しただけで、これほどの変化が出るとは……。

 返ってきたボールを拾い、投げる。

 投げる。

 また投げる。

 おれのフォームだ。おれのボールだ。

「おかん……すごいわ……おかんのアドバイス……すごいわ」

「……」

「おかん?」

 おかんが目尻を拭っていた。おかんが泣いている。

「おかん、なに泣いてんねん? そんなにおれの成長が嬉しいか?」

 おかんの涙に驚きながらもおどけて声をかける。

「アホ……泣いてないわ。コンタクトがずれただけや」

「はあ? コンタクトなんかしてないやないか! 両目二・〇やろ!」

「……」

 おかんは乱暴に目をこすると、

「別におかあちゃんはすごくない」

 と言った。心なし声が昂揚している。

「いや、すごい! ちょっとフォームいじっただけで、見違えたがな!」

 おれも自分の声が昂揚していることに気づいていた。

「……」

 おかんは、しばらく何かを考えるような表情をしていたが、やがて口を開いた。

「今日、あんたが投げるのを見て、あんたのフォームがおとうちゃんのフォームにそっくりになったことにびっくりした。中学生の時は、そんなに似てなかったからな……」

「……」

「で、あんたが投げるのをじっと見ているうち、どこか違和感があるように思えた。おとうちゃんのフォームにそっくりやけど、微妙に違うなと。いや、別におとうちゃんのフォームの真似をさせようとか、そんなことを思ったわけやない。ただ、あんたがもっと楽に投げるにはどうしたらええかって考えたら、重心をもっと低くすることやと気づいた。それで、そうやって投げさせてみた結果がそれや……」

「……」

「いい球がいくようになったし、あんたも楽に投げてるように見えるし、それに……」

「親父のフォームに瓜二つになった?」

「うん」

 おかんの目に涙が浮かぶ。

「そうか……親父そっくりか」

 ガキの頃から、野球をやっている時、親父の影を感じたことがある。それまでできなかったことが、不意にできたりすることがあった。突然、体に「力」が入り込むというか、何かが乗り移るというか……。

「ずっと親父が力をくれてたんかな……」

 小さく呟いたのに、おかんには聞こえたようだ。

「見守ってくれてるのは確かや。でも、力がついたのは、あんたが努力した成果や。あんたが努力せんかったら、おとうちゃんも見守ってくれへんかったやろうし、あんたにも力がつくことはなかった」

「……」

「それに、重心低くして投げるには、軸足の力が必要や。あんな大怪我した右膝に、全体重かけるのは相当な負担や。でも、あんたは鍛えた。膝を苛め抜いた。だからこそ、そのフォームで投げられるようになったんや。中途半端な右膝やったら、おとうちゃんも見守ってくれへんかったやろな。おかあちゃんも重心低くせえなんて言わへんかった」

「……」

 つまり、親父がおれに乗り移ったのではなく、おれが親父に肩を並べたということか。

「ほら、早く投げてみてや!」

 おれは頷き、腕を一度まわすと、ふりかぶり、投げた。相変わらずコントロールは悪いが、ボールにスピードとキレ、伸びがある。今までとは格段に違うボールがレンガに突き刺さる。

 これだ。これがおれのボールだ。おれのフォームだ。

「やっぱり、おとうちゃんの子やな。ほんまにそっくりや。ボールの癖までそっくりや」

 おかんはもう涙を隠そうとしていない。

 おれは、(そや、おれは親父の子や。そして、おかんの子や!)と心で叫び、投げた。

 十球ほど投げた時、おかんが言った。

「ええボールや。少々コントロールが悪くても抑えられるボールや。でも、コントロールはあるにこしたことない」

 そう言うや、涙を拭うと、植え込みの方へ歩いていった。そして、植え込みの中からミットを取り出した。

「ええっ! ミット持ってきてたんか?」

 おかんは当然だという顔でそれを左手にはめ、

「受けたるわ。壁より人に向かって投げる方がコントロールつく」

 と言い、二、三度拳でミットを叩くと、レンガの的に向かって歩きだした。

「おかん、大丈夫か? 怪我するぞ!」

 冗談ぽく言ったが本音だった。仮に力を抜いて投げたとしても、今のおかんには捕れないはずだ。時々、目眩がしたり、目が霞むのだから。これは相当手加減する必要がある。

「大丈夫や、バカにするな! ええか、手加減せんと、思いっきり投げておいでや! そやないと意味がないからな!」

「……」

 おれの思惑を知ってか知らずか、おかんが言う。

「……わかった」

 おかんを見ていると、おかんの言葉を聞いていると、おれが全力で投げたボールを捕れそうな気がしてくるから不思議だ。

 おかんとのキャッチボール。六年ぶりだ。

 だが、おかんが歩くその足元は覚束ない。さっきまでのしっかりした足取りとは少し違う。

「大丈夫かいな? アホの坂田みたいやぞ!」

 そう軽口を叩いた瞬間だった。

 おかんが突然うずくまり、そしてゆっくり前のめりに倒れていった。

「おかん!」

 慌てて駆け寄り、おかんを抱き起こす。

「!」

 おかんは意識を失っていた。

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