四十
島田病院までおかんを抱きかかえ、走った。走れたことがつらかった。それくらい、おかんは軽くなっていた。前回、おかんを背中におぶって病院へ向かったが、その頃よりかなり体重は減っているようだ。
「おかん、若い頃にこの体重やったらなあ、デブて言われんで、モテたかもしれへんなあ。再婚もできたかもしれへんで。あ、再婚はないな。親父命やもんな」
おれは黙って走るのがつらく、一人で喋った。
「なに、寝とんねん。おい、おかん、起きろ! なあ、おれのボール受けてくれるんやろ? なあ、おかん! 得意のセリフ言うてくれ。『寝てないわ。目ぇつぶってただけや』って」
おかんは目を開けない。
「もう十二月やな、あっという間にクリスマスや。おれももうすぐ二十二歳や。おかんの……特徴あるケーキ楽しみやわ」
形は決して良くないが、おかんが一生懸命作ってくれるケーキはおれにとっては最高のそれだった。
「そや、今年のクリスマスはおれがプレゼント贈るわ。社会人チームのテストに受かるから。『サクラサク』っちゅうやつや」
そろそろテストに向けてラストスパートしなければならない。
「言うてる間に正月やな。今度の正月は、寝正月にしよか。いつも元旦からお客さんのとこまわってたもんな。そや、今度の正月はおれがおせち料理作るわ。おれのおせちをあてに酒でも飲もや! そや、酒は百薬の長とか言うがな。そや、そないしよ!」
一人で喋れば喋るほど、不安は大きくなっていった。腕の中のおかんはぐったりしている。
「おかん、お姫様だっこしてるんやぞ、起きろや! こんなんされたことないやろ? されてる自分の姿見んでもええんか?」
「おかん、おかん、おかん……」
「アカン、おれのせいや。おれがピッチング見せたからや。こんなに寒いのに……おかん、すまん……」
一生のお願いと頭を下げられ、そして、おれ自身もおかんに見てほしいと思い、おかんの申し出を了承した。それがこんなことに……。
「ほんまに一生のお願いになってしもたらどないすんねん! 後悔してもしきれへんやんけ! おかん! おい、おかん!」
おかんは、一生のお願いとまで言い、おれのピッチングを見たいと頭を下げた。そして、命がけでおれにアドバイスをした。
いや、アドバイスをするために、命をかけた一生のお願いをしたのだ。ピッチングを見ずとも、おれが壁にぶつかっていることに気づいていたのだ。
「おかん……アホ……おかん……おかん!」
病院へ到着した時、おれの顔は涙でグシャグシャだった。
「相当痛かったはずや」
おかんを診た島田が言う。
おかんは緊急入院となった。
癌は骨に転移していた。肋骨と胸骨、背骨、骨盤。もう何を言われても驚かない。そんな自分が不思議であり、悲しかった。
「自分の足で歩いてたのが信じられへんくらいや……」
「……」
普通、骨盤に癌ができると、痛みと痺れ、麻痺で歩けないらしい。
だが、おかんはついさっき、杖もつかずにスタスタと歩いていた。それも、おれにアドバイスをする時だけ……。あの時だけ普通に歩いていた。
おかん……。
「放射線で痛みは軽くなるはずや。あと、温熱療法が骨の癌には有効や」
「……」
なんでおかんばっかり……今さらだが、そんなことを思った。
人は、自分だけは、自分の身内だけは、大きな病気や事故とは無縁だと無意識に思っている。だが、決してそんなことはないのだ。皆、平等に可能性がある。現におかんが癌という病気になった。だが、それでも、「なんで、おかんが?」という想いに包まれる。おかんは、人の何倍も必死で働き、女手ひとつでこの馬鹿なおれを育ててくれた。それなのに……。
いや、それを言い出せばきりがない。世の中には、悪事を重ねている人間が病気もせずに長生きしている例は数多とある。
「先生、おかんは?」
「眠ったままや。何回か痛みで目が覚めたけど、鎮痛剤射ったら眠った」
目が覚めるほどの痛み。胸が痛んだ。
「手術は? 手術はできないんですか?」
島田が頷く。
それは、おれにとっては、死の宣告以外の何物でもなかった。
相当痛かったはず……島田はそう言った。
いつからだろう?
こまめに診察はしていたが、そう頻繁に検査はできない。検査も体に負担がかかるからだ。いつ骨に転移したのだろう。昨日や今日ではないはずだ。おかんはずっと痛みを我慢していたのか。
墓参りに行った時、おかんは何度もうずくまり、しばらく動けなかった。おれには目眩がしただけだと言ったが、実際は激しい痛みに襲われていたのだ。耐えていたのだ。
「!」
墓地の入口でうずくまった後、おかんはじっと墓の方を眺めていた。そして、その帰り、親父にもうそろそろこっちへ来いと言われたと告白した。充分がんばったのだからと。おそらく、墓地の入口で呆然と墓の方を眺めていた時、親父に手招きされていたのだろう。そしておかんもその覚悟をしていた。
だが、おかんは、墓を丹念に、入念に、執拗と思えるほど丁寧に磨いていた。素手で。あれは、親父にお願いしていたのだ。バカな息子が心配だから、もう少しだけ力をくれと。
実際はもう限界だったはずだ。
墓参りの帰り、おかんの手に触れた時のことを思い出す。それはひどく冷たかった。水を触っていたからとか、そんな次元ではなく、芯から冷たかった。痛みもひどかったはずだ。島田は、自分の足で歩いていたことが信じられないと言った。おかんの足は……体の痛みは限界だった。タクシーに乗ろうと言ったおれに素直に頷いたのがいい証拠だ。
そしておかんは、一生のお願いと言い、おれのピッチングを見た。そして、迷える息子にアドバイスを贈った。
おかんにとっては、まさに「一生のお願い」だったのだ。
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