十一

 夏休みは長い。楽しい時間はあっという間に過ぎ去るというが、毎日遊び呆けているおれにとっては、やけに長かった。やはり、心の底から楽しんでいなかったということだろう。

 そんな夏休みのある日、いつものように繁華街に繰り出すと、アホボンの姿がなかった。同級生の一人に訊ねると、

「ああ、あいつのオヤジの会社潰れたらしいぞ。なんか夜逃げ同然にどっかへ越してしもたらしい」

「……」

 何とも言えない気分になった。

 その時、おれはある意味、世の中は逆に平等なのではないかと思った。それはつまり、いつ誰に何があるかわからないという意味でだ。

 こんなこともあった。

 金蔓がいなくなったが、おれは野球部の練習に行く気もおきず、惰性で繁華街に出かけていた。そんなある日、見慣れない人間を見かけた。それは、おれが秘かに淡い恋心を抱いていた、クラスのマドンナ、ハルカだった。

 ハルカは、年齢の割に大人びた風貌で、それでいて清楚、明るくて勉強もできる、まさにマドンナ的存在だった。その彼女が、髪を茶色に染め、肌を露出した服を着て、口にはタバコをくわえている。

 ショックだった。

 だが、同級生たちは、彼女の変貌ぶりが大歓迎のようで、まるで彼女の取り巻きのように彼女のまわりに群がり、一緒に街を歩きたがった。しかしハルカはそれが嫌なようで、「ガキは向こうへ行って」と言い、大学生らしき男と合流するや、ホテル街の方へ歩き始めた。男はハルカの肩を抱いている。

「どないしたんや、あいつ?」

 おれが同級生の一人に訊くと、

「あいつ、何か知らんけど、急にキレたらしいぞ。毎日毎日親に勉強、勉強って言われて、朝から晩まで塾に行かされてたみたいやからな」

「……」

 塾に行ったことも、勉強しろと言われたこともないため、彼女の気持ちがすべてわかるわけではないが、だが、何となくだが、わかる気がした。人は強制されると反発したくなるものだ。

 彼女は、一時的に迷っているだけなのだ。おれは自分のことを棚に上げてそんなことを考えた。

 次の瞬間、おれは咄嗟にハルカを追っていた。中一だが、ホテルに入った男女が何をするかくらいの知識はあった。

 練習をサボっているせいか、すぐに息が上がる。だが、彼女がホテルに入る直前に追いついた。

 驚くハルカと、訝しげな目でおれを見る男。大学生かと思っていたが、間近で見ると中年のオヤジだった。

「なんや、おまえ!」

 中年男が凄んでくる。おれは、男の体の大きさに圧されながらも、

「彼女から手を離せ!」

 と叫んでいた。

「あ? なんやねん、おまえは!」

 男が彼女の肩から腕をほどき、その腕でおれのアロハの胸倉を掴んでくる。物凄い力だった。殴られると思ったおれは、咄嗟に足を振り上げていた。まともに男の急所に入る。

「ぐがっ!」

 男が妙な呻き声を上げ、うずくまる。体がでかいからといって、あそこの痛みに強いわけではない。おれは男の顎を蹴り上げた。男が仰向けに倒れるのを視界の端で捉えながら、彼女の手を掴み、駆け出す。

 まるで映画のワンシーンのようやなと思いながら、おれは走った。この後、彼女からは感謝され、キスのひとつでもされるのではないかとも考えていた。

 だが、角を曲がったところで彼女の足が止まり、おれの手を振りほどいた。

「ん?」

「なに勝手なことしてくれたん! 三万円がパーになったやん!」

 おれを睨むハルカの目は怒りに燃えていた。

「……何してんねん、おまえ」

「あんたに関係ないやん!」

「関係あるわ!」

「どんな関係があるん!」

「……同じクラスやがな。クラスメートやがな!」

「クラスって……クラスとか学校なんか関係ないやん。どうでもええねん、学校なんて!」

「……勉強勉強で大変やと思うけど、せやからって、あんなことするなよ! 勉強が嫌やったらせんかったらええやないか! 嫌なことをしようとするから、しんどくなるんやろ!」

「何それ! 関係ないわ勉強なんて。それに、あんたも関係ないやん!」

「……」

 おれは感情的になる彼女に驚いていた。ここまで激昂する彼女を見るのはもちろんはじめてだ。

「関係は……あるよ」

「……」

「友達やないか」

「はあ? 友達? あんたとわたしが? そんなん初耳やし、わたしには友達なんて一人もいてないと思ってたけど」

「……」

 確かに、彼女はあまりに何もかもが完璧すぎて、ゆえに友達はいなかった。

 おれは決断した。

「わかった。ほな、言うわ。ほんまのこと言うわ」

「な、なによ!」

「実はおれな……おまえが……おまえのことが気になるんや」

 言った後、顔が真っ赤になっていることが自分でもわかった。

「……何それ?」

 呆れたようにハルカが言う。おれは開き直ったように言った。

「……だから……おまえのことが好きなんや!」

「……」

 ハルカは無表情におれを見ていた。無表情だが、彼女の頬にも朱が射したように見えた。

 中学に入学し、一学期だけでも何人に告白されたかわからない彼女は、その度、「わたしのこと何も知らないくせに、なんで好きって言えるん? わたしもそっちのこと何も知らないから、付き合えない」と断っていた。

 そんな彼女は、生意気だと、特に同性から反発を受けていた。そのことも彼女に友達がいないことに関係していた。

 おれも彼女にそう言われると思った。だが、彼女の答は違った。

「アホちゃう!?」

 生まれてはじめて愛の告白をしたばかりのおれは、頬に熱を溜めたまま言った。

「な、なにがアホやねん!」

「適当なこと言いなや!」

「て、適当てなんや! 人の愛の告白を!」

「……アホはアホや!」

「……アホでも何でもええ。とにかく、あんなことやめろ! あんなことするおまえなんて、おまえらしくない!」

「わたしらしいって何よ!」

「……それはつまり……おまえがおまえであるっちゅうことや!」

「……何も知らんくせに……」

「!」

 突然、ハルカの目に涙が浮かんだ。

 おれは焦った。大声で怒鳴り合っていたところに、今度は涙。いつの間にか集まってきていた野次馬たちが非難の目でおれを見ていた。

 おれは何か言わなければと思い、咄嗟に口を開いていた。

「し、知ってるぞ」

「……」

「おまえはかわいくて、真っ直ぐで、勉強ができて……うーん、それから……」

「何それ? それだけ?」

「……いや、他にもある。えーと……そうそう、おまえ、三年の不良たちが踏み潰した花壇を元通りにしとったやろ? わざわざ人のおらん早朝に登校して、花を植えかえとったやろ」

「……」

 ハルカの表情が変わる。

 おれはチャンス(?)とばかりに畳み掛けた。

「人に見られたくないから早朝にやったんやろ? おまえはそういう奴や。ええ奴なんや!」

「……」

 ハルカの表情が明らかに穏やかになった。照れているようにも見える。

「だからおれはおまえが好きになった。そのへんのしょうもない奴と違って、おまえのこと見た目だけで好きになったわけやない!」

「……」

 ハルカの頬がまた朱に染まる。

「だから、おまえらしくないことするな!」

 ハルカはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「……なによ! あんた、やらしいな、こっそり見てたん? あんたこそ、そんな朝早くから何してたん!」

「……お、おれは……」

 虚を衝かれたおれは戸惑った。

 あの時、おれはなぜ早朝の学校にいたのか……。

 ハルカが謎解きをしてくれた。

「あの頃は、あんたはまだエースになる前やったから、朝早くからたった一人で練習してたんやろ?」

「……」

 そうだ、そのとおりだ。あの頃のおれは、がむしゃらに練習していた。

「今のあんたこそ、あんたらしくないわ!」

「……」

「野球の練習は? 野球部の子らみんな真っ黒に日焼けしてるのに、あんたは真っ白やん! こんなところで毎日毎日何してるん!」

 ハルカはそのまま背中を向けた。

「……」

 おれは何も言い返せず、ハルカの背中が小さくなるまでずっと見つめていた。

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