十九
リハビリは一年続いた。同じ時期に、同じ症状でリハビリを始めた男性は、おれとは比べものにならないくらいの軽いリハビリメニューをこなし、たった三ヶ月で卒業していった。
おれの気持ちを察したのか、島田は、「気まぐれなおまえのことやから、いつまた野球を始めたいって言うかもしれへんからな。一般的な生活を送れればいいという人とは当然違うメニューになる」と笑いながら過酷なリハビリメニューを課した。
おれは正直、野球のことは考えたくなかったが、それでも真面目にリハビリに取り組んだ。その甲斐あって、一年後には島田からゴーサインが出た。だが、膝が不安定なため、いや、不安定に感じるため、歩くことはともかく、走るのが怖かった。
だから、リハビリ中はもちろん、ゴーサインが出てからも、おれは体育の授業を休んだし、体育大会やクラス対抗スポーツ大会も見学した。クラス対抗スポーツ大会は、ソフトボールだったのだが、膝の状態とは関係なく、やりたくなかった。
おれはリハビリ中も、リハビリ終了後も、漠然と学校に通い、メシを食い、眠るだけの生活を送っていた。
野球が嫌いになったわけでも飽きたわけでもないが、野球部は相変わらず活動休止状態だったし、おれは膝の不安を言い訳に、ボールすら握らなかった。いや、握れなかった。
上級生たちのことを、野球を冒涜した許せない奴らだと思っていたが、おれ自身も野球を冒涜したのだと、その頃になると自覚していたのだ。
おれこそが許されざる者だと。
なぜなら、どんな事情があったにせよ、野球を裏切ってしまったのだから……。大怪我したのは、野球を冒涜した罰なのだと思った。だから激しい動きをすることが怖かった。
学校に行っても勉強などほとんどせず、窓の外を眺めて過ごした。元々程度の低い学校だったので、テスト勉強などせずとも赤点を取ることはなく、留年はしなかった。
友達もなく、教師と話をすることもなく、何の楽しみも目標もないまま、おれは高校生活を送っていた。
おかんは時々ハルカに世話を焼いているようで、ハルカの話をすることがあったが、おれはふんふんと頷くだけで、ハルカと会うことはなかった。会えば、夢を追うハルカに眩しさを感じるに違いないと思ったからだ。ハルカもうちに遊びに来ることはなかった。多分、ハルカなりに気を遣っていたのだろう。夢も目標もないおれに……。
やがて高校三年になり、進路のことで何度も三者面談があった。おれは、まわりと同様、適当な所に就職して、飽きたら適当に転職し、適当に生きていこうと漠然と考えていた。とはいえ、世は長く続く不況の入口にさしかかっていたので、求人数は少なかった。ましてや、程度の低い学校に送られてくる求人票の数はたかが知れていた。
夏が過ぎた頃、おかんが言った。
「あんた、大学行くか?」
「はぁ? なんでやねん。おれが勉強嫌いなん知ってるやろ?」
「知ってる。かといって遊ぶこともそんなに好きやない」
「……」
「だから、遊ぶためだけに大学行くようなあんたやないから言うてるねん」
「……」
「担任の先生から聞いたけど、あんた、就職希望してるんやろ?」
「まあな」
「何かやりたいことあるんか?」
「いや……」
「たとえば、どんな所で働きたいとか、あるんか?」
「ない。ただ、どっかの小さな工場やったら働き口くらいあるやろうから、そこでのんびり働こうと思ってる」
「のんびりて、隠居か! あんた、工場を馬鹿にしたらアカンで。工場はきついで。きついし単調や。キャッチボールが単調やからってすぐに音を上げたあんたのことや、多分すぐに飽きると思う」
「そうなんか?」
「当たり前や。楽な仕事はない」
「……」
「やることが決まってないんやったら、大学行ったらどうや? 大学行くくらいのお金出したるから」
「……」
おかんに言われて、大学へ行くのもいいかなと思った。おかんには工場で働くと言ったが、自分が工場で働いている姿をイメージできなかった。大学生になるというイメージも湧いてこなかったが、工場で働くよりはイメージができた。
それと、おかんが猶予を与えてくれたのだと思うと、それに甘えてみようと思ったのだ。大学へ行けば、何かが変わるかもしれないとも思った。
もしかしたら、おれはおかんが助け舟を出してくれるのを待っていたのかもしれない。
「でも、大学受かるかな、おれ」
「勉強したら受かるわ」
「そのままやんけ!」
「とりあえず、無理せん程度にがんばり」
「うん」
その日から、おれは適度の受験勉強を自分に課した。大学受験に合格するという、とりあえずの目標が生まれたおれは、それまでの日々よりは充実した毎日を送ることができた。問題が解けないことはストレスだったが……。
おかんには、「ハルカちゃんに勉強教えてもらい」と言われたが、断った。ハルカと二人きりで部屋にいると、悶々として勉強どころではなくなることがわかっていたからだ。
だが、おかんは別の意味でとったようだ。夢を追うハルカにおれが気後れすると考えたようだった。それはそれで助かった。
おれは自力で勉強した。おかんは毎晩夜食を作ってくれた。飽きっぽいおれは、何度も何度も、なんでおれは勉強なんかしてるんやと思ったが、おかんの応援もあり、何とか続けることができた。
やがて年が明け、受験。そして合格。偏差値だけのランクで言うと中の下、いや、下の中くらいの大学だったが、自宅から近いことが魅力で、満足だった。
おかんは喜んでくれた。その喜ぶ顔を見ていると、おれは素直にがんばってよかったと思った。
おれは知らなかったのだが、ハルカは秋に高等学校卒業程度認定試験に合格していた。そして見事、東京の医大に合格した。国公立だ。ハルカは、受験料から入学金からすべてアルバイトで賄った。全部おかんに出してもらったおれとは大違いだ。
ハルカは一度東京へ行き、下宿とアルバイトを決めて帰ってきた。大学へは奨学金で行くそうだ。
春、おれはハルカに久しぶりに会った。ハルカが上京する日だ。
ハルカはまた綺麗になっていた。受験勉強とアルバイトでやつれているのではないかと心配したが、杞憂だった。
照れながら、おれはハルカと向き合った。だが、
「あんた、太ったな」
ハルカの第一声にガクリとした。おれは絶句し、そして、
「え、ほんまか?」
と自分の体を見下ろしていた。
自分では気づかないものだ。確かに運動不足と毎晩の夜食で、多少太ったとは思っていたが、いつもゴムの入ったズボンを穿いていたため、そんなに自覚はなかった。
「大学行っても、もてへんで」
「うるさいわ!」
こいつは、男心がわからん奴やなぁと思いながら、
「おまえも勉強ばっかりしとったら、男が寄ってこんぞ!」
「ええねん。医者になるんやから、遊んでいる暇なんかない」
「……」
おれはハルカの言葉に安心していた。だが、、
「適当に遊ばな脳みそ破裂してまうど」
と憎まれ口を叩いていた。
「アホ」
ハルカはそのまま夜行バスへ乗ってしまった。
ハルカが窓を開け、顔を出す。おれは、まるでドラマのワンシーンのようなシチュエーションにまた一人照れた。だからわざとキョロキョロし、
「おかん、来んなあ」
と呟いた。
「来ないよ。さっき挨拶してきたから」
「……そうか」
エンジンがかかり、バスがゆっくり動き出す。ハルカが窓から手を出し、振る。
またまた照れたおれは、黙って背を向け、そして手を振った。
「カッコつけるな、アホ!」
ハルカの声が背中に当たる。それでもおれはハルカに背を向けたまま、
「元気でな!」
と怒鳴るように言った。バスが徐々に遠ざかる。
「あんたも元気でね! お母さん、大事にしいや!」
ハルカの声に、おれはやはり背中を向けたまま、腕を天に向かって突き上げた。
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