四十六

 病院に到着すると、島田とハルカがおれを待っていてくれた。おかんのいる部屋まで急ぐ。

「先生、おかんが意識を取り戻したって……」

「ああ。ただな……」

「えっ?」

「意識を取り戻したのは、今朝方、癌がリンパに転移したからや。そのせいで、突然熱が上がって……」

「!」

「時々……酸素マスクを取ろうとするんや」

「!」

「多分……おまえに何かを伝えようとしてるんやと思う」

「……それで……おかんは……」

「……覚悟しといてくれ」

「……」

 おかんは集中治療室へ移されていた。

 おれは無菌服を着用し、集中治療室の中へ入った。

 おかんの体は管だらけだった。

「おかん……」

 首のリンパに転移したのだろう、おかんの顔は倍ほどに腫れていた。

「おかん……太ったな……」

 つまらない冗談を言えた。最後の方は涙声になったけれど……。

「負けたわけやない。病気にも、自分自身にも……。引き分けや。時間切れ引き分けや……」

 薄緑色の酸素マスクが曇ったり、クリアになったりする。かすかに呼吸をしているが、ベッド脇の心電図モニターの波線は限りなく直線に近く、血圧が六十を切っている。

「!」

 おかんの手には、ガキの頃から二人でキャッチボールをしてきた軟球が握られていた。

 おれの視線に気づいた島田が言う。

「ずっと握りっぱなしや。こんな状態になっても離さへん」

「おかん……」

 ガキの頃からずっと使ってきたボール。表面がツルツルになったボール。

「!」

 不意にそれがおかんの手から零れ落ちる。

 シーツの上を転がるそれを手に取り、握りしめる。何日間も握っていたそれはおかんのぬくもりで満たされていた。

 おれはキャッチボールをするように、おかんの手にそれを戻す。

「ほら、しっかり握らんと、ええボール投げられへんぞ。ソフトボールの選手やったんやろ? キャッチャーみたいな体型してたけど、ピッチャーやったんやろ!」

 おれはおかんの手にボールを握らせ、そして両手でそれを包み込むように覆った。すでに熱は下がったのだろう、おかんの手は冷たかった。それがなんとなく嫌で、おかんの手を包み込んだ手を上下に軽くこすった。

 おれは、人の人生というものは、こんなに呆気ないものなのかと考えた。誰だって一度は死ぬ。いや、死ぬために生まれてくるのかもしれない。もっと言えば、死に方を探すために生きるのかもしれない。

 誰もが死ぬ。いつか死ぬ。必ず死ななければならない。

 そして皆、最後は人生時間切れ引き分けなのだ。人生に勝ちもない。負けもない。みんな引き分けだ。

 と、おかんの手がかすかに動いた。そう思った次の瞬間、おかんはボールをきつく握り締めていた。

「!」

 酸素マスクが曇り、そしてクリアになる間隔が短くなる。おかんは苦しそうでもあり、何か言いたそうでもあった。

 おれは咄嗟に酸素マスクを外していた。

「おかん……」

 おれの呼びかけに、おかんがかすかに反応する。

「おかん!」

 耳元で叫ぶように言う。

 おかんの瞼がピクリと動いたが、目は開かなかった。だが、かすかに口が開いた。

「おかん……」

 おかんの口元に耳を寄せる。わずかに唇の動く様子が伝わってきた。

「カズ……大層にしな……この世で起きることなんて、どれもこれもたいしたことないんやから……」

 聞こえた。確かにそう聞こえた。

「おかん……」

 涙が溢れ出す。我慢していたわけではないが、今まで無理に堰き止めていたかのように、そしてそれが一気に決壊したかのように、大粒の涙が頬を伝う。

 また声が聞こえてきた。

「カズ……ごめんな、こんなになってしもて……おかあちゃん、怖かったんや。検査するのが怖くて、その結果を知るのが怖くて、すぐに検査受けへんかった。だから手遅れに……。ごめんな……。死ぬのも怖かった。でもな……死ぬのも人生や……人生、全部あそびや……」

「おかん……勝手に死ぬな!」

 叫んでいた。喚いていた。おかんの前で無様な姿を見せていると思った。でも、止められなかった。

 おれはもう冷静ではなかった。冷静でいられなかった。今まで冷静でいられたのは、おかんの死に、ここまで現実味がなかったからだろう。

 今、おかんの死が現実として目の前を漂っていた。

「おかん! 死ぬな!」

 おかんが死ぬなんて考えられない。現実を受け容れたはずが、決してそうではなかった。

 どこかで、おかんならきっと復活する、そう信じていた。

 死を受け容れられるわけなどない。

 当たり前だ。

 そんなに簡単におかんの死を受け容れられるわけなどない。死を目前にしているおかんを前にし、改めて思った。

「おかん!」

 心拍数が下がる。血圧も急激に低下してきた。酸素マスクをつけようとすると、それを拒否するかのように、おかんの唇がかすかに動いた。

 耳を寄せる。

「泣きな! 同じ空の下におるから……」

 そう……聞こえた気がした。

「……おかん……」

 おれはベッドの脇に膝から崩れ落ちた。

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