おれのおかん

登美丘 丈

 おれには父親がいない。

 ガキの頃……おれが二つの時だったそうだが、交通事故で向こうの世界へ逝ってしまった。

 記憶はまったくない。一緒に写った数枚の写真を記憶として認識しているだけだ。そして、おかんをはじめ、まわりの人間の話から、親父という存在を心に刻んできた。

 唯一の親戚である、おかんの姉、つまり叔母の話によると、おかんは親父が亡くなった日は、まわりがその姿を見るのもつらくなるほどふさぎ込んでいたらしい。

 でも、ふさぎ込んでいたのはその一日だけで、翌日は、泣きすぎのせいで、目は腫れていたが、毅然とした態度で、葬儀を取り仕切っていたそうだ。

 初七日が終わると、仕事を探し始め、すぐに保険の外交員の仕事を見つけてきた。元来、明るくて社交性があり、また、姐御肌のおかんには、保険外交員という仕事が向いていたようだ。

 おかんは保険外交員という仕事を誇りに思い、同時に感謝もしていた。女手ひとつでおれを育て、大学までやることができたのは、この仕事に出会ったおかげだと何度も言っていた。

 また、そういった理由だけでなく、顧客に感謝されることが一番の喜びで、実際おかんは多くの客から感謝されており、それが仕事に誇りを持てる最大の理由だったのかもしれない。

 おかんの場合、売上を伸ばし、給料を少しでも多くもらおうという意識で仕事をしてきたわけではなく、(いや、もちろん、給料は多いに越したことはないのだが)、自らの体験から……つまり、不慮の事故等、人生には何があるかわからないということを説き、親身になって客の相談に乗ったり、話をしているうち、いつの間にか成約件数がトップになり、その後二十年間支店トップを維持したのだった。

 おかん自身、親父に保険をかけていなかったこともあり、いざという時のための備えという部分で、保険は必要だということを、身をもって体験しているだけに、決して売上を伸ばすためだけに保険の仕事をしているわけではなかったのだ。

 それが顧客にも伝わったのだろう、この人はお金欲しさに保険を勧めているのではない、本当に私のことを考えてくれているのだ、と。

 おれは、保険の詳しいことまではよくわからないが、ただ、突然一家の大黒柱の命が奪われた時、保険に入っていなければ当座の金もなく、一家が路頭に迷うということくらいはわかる。実際、そんなケースで残された母子が、一家心中したという事件がよくある。一歩間違えば、おれもそうなっていたかもしれない。バイタリティのあるおかんのおかげで、こんなに大きくしてもらったが……。

 だから、おかんは多くの保険に加入した。おれが保険というものを理解し始めた頃、毎月大金を支払っていることに疑問を覚えたことがある。そんなおれに、おかんは言った。

「おかあちゃんが死んでも、あんたが惨めな想いせんでええようにや」

「なんやそれ、縁起でもない。殺しても死なんがな」

 と返したことを覚えている。


 おかんはとにかく忙しかった。

 おれは小学校に上がるまでは、叔母のところへ預けられていた。叔母もまた、おかんに負けず劣らず社交性があり、明るく、豪快な女性で、二十代の頃から生涯独身を宣言していた。「誰かと結婚したら、それ以外の男たちがヤキモチ妬いて大変や。おちおち結婚生活送られへん」が口癖の叔母は、大阪一の繁華街・ミナミでスナックを経営していた。

 そんな叔母だったから、預けられたおれは、退屈はしなかったが、それでもおかんと会えない日中は寂しかったのを覚えている。

 夕方、叔母が店を開けようかという頃、おかんが仕事を終えておれを迎えに来る。おかんの姿が見えた瞬間、おれはおかんの胸に飛び込んでいったものだ。おかんもおれを強く抱きしめてくれた。そんなおれたちを、叔母は羨むような目で見ていたのを覚えている。だが、ガキだったおれは、叔母の寂しさを知る由もなく、昼間の寂しさを埋めるかのように、おかんに抱きついていった。

 それでも叔母は、日中おかんがいなくて寂しがるおれに、おかんのことを話してくれた。

 叔母と十歳離れているおかんは、子供の頃は甘えん坊で、叔母から離れなかったそうだ。

 おれが生まれた時は、おれが産湯に浸かった瞬間、「五体満足ですか? 元気ですか?」と今にも分娩台から立ち上がらんばかりの勢いで産婆さんに訊ねたらしい。

 まだ親父が生きている頃は、三人でよく公園へ行き、ボール遊びをしていたそうだ。

 おれが一歳の時、急に熱が出て、それが全く下がらず、おかんは救急車を呼んだのだが、到着があまりに遅く、しびれを切らしたおかんはおれを負ぶって夜中の町を走ってくれたらしい。どこの医院も夜中ということで応対すらしてくれず、おかんは泣きながら駆けずり回ったそうだ。そんな中、たった一軒だけ応対してくれ、看てくれた医者がいた。島田病院の島田院長だ。それが、後に、本当に世話になる島田との出会いだった。

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