二
とにかく弱音を吐かない人だった。
女手ひとつで子供を育てていくには、弱音を吐いている暇などないと、無意識に考えていたのだろうか。
逆におれが弱音を吐くと、叱咤激励してくれた。
幼稚園に通っていなかったため、小学校に入ったばかりのおれは、はじめて経験する集団生活に戸惑い、なかなか馴染めなかった。それまで、おかんや叔母、叔母の店の客など、大人と接することが多かったおれにとって、同年代のガキが子供に見えたこともある。おれ自身、ガキだというのに……。
おれは入学早々、学校を休むようになった。今で言うところの不登校というやつだ。
大阪ミナミからほど近い、大国町という下町に住んでいたのだが、朝、おかんが先に家を出た後、おれは昼過ぎまでテレビを観たりして時間を潰してから叔母の家へ行った。一年生の一学期は給食がないため、昼ごはんをよばれるためだ。叔母の家は日本橋にあり、ミナミを横切るかたちで自転車を漕ぐ。十分もすれば叔母の家へ到着する。
叔母は、おれが学校へ行っていないことに薄々気づいていたようだが、何も言わなかった。おかんにも何も言わなかった。
だが、当たり前だが、すぐにおれの不登校はおかんにバレることになる。
学校から連絡があったのだ。
「あんた、学校休んでるみたいやな!」
おかんは怒った。
あれだけ怒られたのは、生まれてはじめての体験だった。暴力こそ振るわれなかったが、殴りかかってきそうな勢いで、「嘘つき!」と怒鳴られた。
おかんの目には涙が溜まっていた。
おかんは、学校を休んだことに対して怒ったのではなかった。
おれが嘘をついていたことに対して怒ったのだ。
それまで、おかんは毎日、おれに学校での出来事を訊いてきた。母親だから当然だ。それに対し、おれは要領よく、おかんの喜ぶ答を返し、さも学校生活を楽しんでいるという態度を貫いていた。学校など行っていないというのに。
おかんはそれに対し、怒ったのだ。おれが平気で嘘をついたことに対して……。
ひとしきり怒った後、おかんはきちんと理由を訊いてくれた。学校に行きたくない理由を。
おれは、みんなで一緒に何かをするのがバカみたいで嫌だからだと答えた。おれは正直に答えた。怒られるかなと思ったが、もう嘘をつきたくはなかった。
だが、おかんは怒らずに、大きな口を開けて笑った。
「なんや、そんな理由か。同級生が子供に見えるんやな? あんたは大人とばっかり接してきたからな」
と言い、しばらく笑っていたが、おれが学校に馴染めない理由を、自分が幼稚園に通わせなかったせいだと考え、責任を感じ、担任の先生が自宅を訪ねてきて、学校に来るよう言っても、「本人が行きたくなったら行かせますから」とだけ言い、決しておれに学校へ行けとは言わなかった。
それどころか、幼稚園に行かせなくてごめんな、とまで言ってくれた。
そうなると不思議なもので、子供心に、おれは悪いことをしているのだという意識になり、おれは学校へ行くようになった。
不登校は一ヶ月で終わったが、それでも毎日きちんと登校するわけではなかった。大体、二日行っては一日休むというローテーションで、週休三日だった。
もちろんおかんは怒らなかった。おれが正直に、「今日は休んだ」と言うと、「そうか、まあええがな」と笑いながら答えてくれた。
とにかくおかんは、おれが嘘を言ったり、裏切ったりしない限り、おれを端から否定することはしなかった。というより尊重してくれた。
「あんたがそうしたいのなら、そうしたいなりの理由があるんやろう」と言ってくれたこともある。
世間では、おかんのような親のことを、無責任だとか、甘いとか言うのだろう。実際、担任の先生からは、放任しすぎという言葉も出たようだ。だが、おかんは頑として自分の考えを譲らなかった。
「学校へ行ったら行ったなりの学びがあり、休んだら休んだなりの学びがあるんですわ」
ともおかんは言った。
あの頃は、学びと言われてもピンと来なかったが、今ならよくわかる。学校を休んだ日は、叔母の元で社会勉強をさせてもらっていた。まさに学びだ。
今思うと、おかんはまだ小学一年生のおれを承認し、尊重してくれていたのだ。
大学で心理学をちょこっとだけ学んだ。自己承認とか他者承認とかいうやつだ。つまりおかんは、子供のおれを決して子供扱いせず、一人の人間として尊重してくれていたのだ。
それは決して甘やかしでも無責任でもなかった。おれをのびのびと、しかし、厳しく育ててくれたと言える。つまり、自分の行動にきちんとした理由づけをすることと、責任が発生することを、子供ながらに強く意識づけさせられたのだ。
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