第三章 ~『才谷と過大評価』~


 世界が移り変わり、目を開けた先は白い病室の壁へと変化していた。顔を上げると、僕が目を覚ますのを心待ちにしていた坂本の整った顔が待っていた。


「おはよう、才谷くん」

「おはよう、坂本さん」

「新婚旅行はどうだった?」

「楽しかったよ」


 龍馬が新婚旅行で鳥狩りを楽しんでいたことや、楢崎龍と一緒に温泉に入ったことを話す。


「もしかして私の高祖母の裸を見たの?」

「ちらっとね」

「才谷くんってエッチだったんだね」

「ちらっとだよ。極力見ないように努力したからね」

「本当かな?」

「本当さ」


 僕の必死な言い訳が可笑しかったのか、坂本はクスクスと笑う。いつも通りの彼女の笑みに、僕はなんだか安心する。


「それで龍馬が楢崎龍を愛していたかどうかは分かった?」

「それは……より疑念が深まる結果になったね」


 楢崎龍は手紙で残した通り、龍馬が自分を愛しているかどうかを疑っていた。それを坂本に伝えると彼女は悲痛の笑みを浮かべる。


「坂本さん、どうかした?」

「龍馬は楢崎龍を哀れに思ったから、結婚したかもしれないんだよね?」

「楢崎龍はそうだと疑っているみたいだね」

「もしかして才谷くんが私と一緒にいてくれているのも哀れだから?」


 坂本が悲痛の表情を浮かべた理由は楢崎龍の感情を自分に重ねたからだった。僕は迷わず首を横に振る。


「哀れみなんかじゃないさ。僕は坂本さんといると楽しいから一緒にいるんだ」

「……本当は私のことが苦手なのに?」


 坂本の言葉にドキリとさせられる。彼女は僕の内心に気づいていたのだ。だが僕はいつもと変わらない表情で首を横に振った。


「僕は君のことが苦手なんかじゃないよ」

「才谷くんは変わらないね……昔から変わらず優しい人……」

「…………」

「実はね、私は高校に入学するよりも前から君のことを知っていたの」

「それについては僕も気づいていたよ」


 京都旅行で家族風呂に入っている時に、僕のことを心眼が使える達人だと表現していたし、海王高校の藤田との会話にも疑問を挟まなかった。あれは僕が小・中学時代に剣道をしていたのを知っていたからだ。


「私は才谷くんの剣道の試合を観戦したことがあるの。流れるような面打ちは、まるで本で読んだ龍馬そのもの……私は君に憧れて、ファンになった」

「…………」

「それから君の試合を陰から応援してきた。圧倒的な勝利を重ねる君に益々惹かれていった。でもね、それは本当の意味で才谷くんを愛していたわけではないの。君越しに龍馬を見ていただけだったの」


 僕は龍馬に負けない剣の腕を持っている。だからこそ坂本は僕と龍馬を重ねたのだ。またしてもあの男のことが嫌いになりそうだった。


「でもね、ある夕暮れ時のこと。病弱な私は応援の帰り道で倒れてしまったの。心配そうにすれ違っていく人たち。でも私に手を差し伸べてはくれた人は誰もいなかった……」


 きっと自分以外の誰かが助けるはず。人は群衆になると、優しさを他人に期待するようになる。


「私はこのまま死ぬんだと絶望していると、足を止めて、声をかけてくれた人がいたの……それが才谷くんだった」

「覚えてないな……」

「ふふふ、それは君が優しいからだよ。普段から人に優しくしている人は、それが当たり前だから記憶に残らないんだよ」

「僕のことを過大評価していると思うけどね」


 僕は悪人ではないが、坂本が思うほどに優しい人でもない。どこにでもいる普通の根暗な高校生だ。


「才谷くんは病気で倒れた私を背負って家まで送ってくれたの……道中、何度も励ましの言葉をくれて……優しくされればされるほど、私の龍馬への憧れは才谷くんへに対するものへと変わっていった。そしてこれが――私の初恋になった」

「僕が初恋の相手か……」


 人を見る目がない。僕なんかより優れた人間は世の中に大勢いるのに。


「だからね、高校に入学して才谷くんと再会した時、私は嬉しくて泣きそうになったの。精一杯お洒落して、明るい性格になって、勉強も頑張った。ようやく君に見合う女になれたと自信を持てたから、君と同じ図書委員に立候補したの」


 坂本が図書委員になったのはやはり偶然ではなかった。彼女は目尻に大きな涙を浮かべて、僕をジッと見据える。


「才谷くん、私、気づいていたの。君が私のことを苦手に感じているって……でも君は優しいから、命が限られている私に付きあってくれた……」

「坂本さん……」

「これが私の片思いの真実。私は君のことが好きだから、迷惑をかけたくないの。だから今までありがとう……私ね、才谷くんのこと大好きだったよ……」


 坂本は有無を言わせぬ笑みを浮かべる。その笑みには僕を突き放すような強い意志が込められていた。

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