第二章 ~『救われた命』~


 視界が次第に鮮明になる。最初に飛び込んできた光景は、坂本の整った顔ではなく、愛嬌のある男の顔だった。起き上がって周囲を見渡したことで、ここがいつもの寺田屋、しかも過去の寺田屋だと知る。


「龍馬さん、急に気を失われたようですが、どうかしたんですか?」

「疲れていたのかもしれないね」

「最近の龍馬さんは大活躍でしたからね。聞きましたよ。薩長同盟を成立させたんですよね?」

「そうだね」


 男の口振りから薩長同盟が成立してから日が経っていないことを知る。なら男の正体にも自然と結論が出る。


「もしかして君は三吉くんか?」

「龍馬さん、まさか疲れで私の名前まで忘れてしまったんですか?」

「……忘れたわけではないんだ。確認したくてね」

「三吉慎蔵ですよ。忘れないでください」


 三吉は長州藩士で、桂小五郎の部下だった男だ。桂の命令で京都における諜報活動を担当しており、武芸の腕も立つ、長州の実力者の一人だった。


「私の名前を忘れたことは許しましょう。そのお詫びに、高杉さんから貰ったピストルを見せて貰えませんか?」

「ピストル?」

「とぼけないでください。すべて高杉さんから聞いているんですから」

「あ、ああ」


 僕は懐をまさぐり、一丁の拳銃を取り出す。これは長州藩士の高杉晋作から自分の身を守るようにと龍馬に与えられた武器で、回転式の32口径拳銃だった。


 当時、銃といえばまだまだ火縄銃が一般的な世界で、これほどの小型な拳銃を見ることはまずない。三吉は目をキラキラと輝かせながら拳銃を眺めた。


「いやー、見ているだけで惚れ惚れしますね。龍馬さんに相応しい銃です」

「ははは、そうかい」

「これで龍馬さんの魅力もアップで、近づいてくる女性の数もまた増えるというものですね」

「また?」

「とぼけないでください。龍馬さんの女好きは有名ですからね。最近だと江戸の現地妻を泣かせたと聞きましたよ」

「そうだね……」


 千葉さな子のことである。彼女は涙ながらに僕を見送ったが、無事、江戸に帰れただろうか。


「それにしても龍馬さんは凄いです。女と見るやちげっては投げ、ちぎっては投げを繰り返す。伝説の横綱、雷電だってこんな豪快な投げできやしません」

「…………」

「しかも全員べた惚れにするとか。でもそれも龍馬さんの魅力にかかれば仕方ないかぁ」


 聞けば聞くほど、龍馬の女癖の悪さが強調される。やっぱり僕はこいつが嫌いだ。


「龍馬さん、お願いですから私の妻は狙わないでくださいよ」

「狙うもんか……僕にも大切な人はいるからね」

「お龍さんですよね。あれだけの美人ですから、龍馬さんとの間に生まれる子はさぞかし可愛いでしょうね」

「まだできてないけどね」

「是非頑張ってください。龍馬さんの子孫は後世に残すべきですから……こんな偉大な人間の血が失われるなんて、日本の、いや人類の損失です」

「ははは、頑張ってみるよ」


 僕が気恥しくて頬を掻いていると、階段を昇ってくる足音が響く。その足音の速さからただ事ではないと察する。


「りょ、龍馬さん!」


 襖を開けて飛び込んできたのは全裸の楢崎龍だった。美しい黒髪をお湯で濡らしながら、息を整える。


「幕府の伏見奉行の捕り方が……」

「数は?」

「三十人ほどです」

「ありがとう。良く知らせてくれたね」


 僕は楢崎龍の身体を隠すための服を渡すと、彼女に窓の外へと逃げるよう伝える。しかし彼女は首を横に振る。


「私、龍馬さんと一緒に戦います」

「いいや、君がいると本気で戦えなくなる。僕のためにも逃げてくれ」

「で、でも……何かしないと……」

「……なら君が無事に逃げられたなら、僕の代わりに薩摩藩邸に助けを呼びに行って欲しい」

「分かりました……それが龍馬さんのためになるなら」


 渋々と楢崎龍は窓の木を伝って外へと逃げる。僕は腰から剣を抜いて構えた。


「三吉くん、命を賭ける準備はできているかい?」

「もちろんですとも」


 二人は剣を構えて、敵が現れるのを待つ。到着を知らせるように、階段を昇る大勢の足音が響く。


 階段を昇る足音が止まると、僕はすっと息を吸い込んだ。多人数との戦いは初めての経験だ。奉行人は命がけの戦いの専門家であり、恐れて逃げるようなこともしない。決死の覚悟が求められる。


 僕はすぅと息を吸い込むと、襖が勢いよく開けられる。楢崎龍の言葉通り、三十人近い捕り方が剣を構えていた。


「幕府の命を受けての取り締まりである。神妙にお縄に付け」

「僕らは薩摩藩士だ。君たちの仲間だよ」


 薩摩藩士は裏で長州と手を結んでいたが、表では幕府の味方である。しかし味方を攻撃しないでくれという説得は聞き耳を持たれず、彼らの剣をさらに強く握らせるだけの結果と終わる。


「仕方ない。野蛮なことはしたくなかったが……」


 僕は懐から拳銃を取り出すと、人に当たらないように発砲する。発砲音が響き、火薬の匂いが充満する。奉行人は拳銃を始めて見たこともあり、驚きで喉をゴクリと鳴らしていた。


「僕は拳銃を持っている。無用な争いは生みたくない。おとなしく引いてくれないかな?」

「この者たちは幕府の命に反抗する反逆人だ。捕らえよ!」

「だよねー、退いてくれないよねー」


 初めから分かり切っていたことであるが、死を恐れず向かってくる奉行人たち。僕は拳銃を捨てると、両手で剣をしっかりと構える。


 相手の動きに合わせるように、峰打ちで剣を胴へと叩きこむ。カウンターで入った一撃で、男は膝から崩れ落ちた。


「龍馬さん、この人数相手に捌ききれません。窓から逃げましょう」

「そうだね」


 三吉の言葉に反応したのは僕だけではない。奉行人たちは僕らを逃がさぬように一斉に襲い掛かる。その剣を一本一本、丁寧に受け流していく。


「敵の数が多すぎる……」


 剣道は基本的に一対一しか想定していないため、多人数からの攻撃に反応が遅れる。致命傷は避けているものの、身体に刀傷が刻まれていく。


「三吉くんは逃げたか。なら僕も」


 三吉の後に続いて窓から飛び降りる。窓の下では逃げたと思われた三吉が震えて立ち尽くしていた。


「三吉くん、どうして逃げないんだ?」

「龍馬さん、もう無理です。低木の陰から奉行人の様子を伺いましたが、数が増え続け、このままだと百すら超える勢いです」

「百人か……」

「逃げ切れるはずがありません。龍馬さん、切腹しましょう」


 三吉は死を恐れていないが、奉行人に捕まり、拷問の末に殺されることは恐れていた。彼の瞳に宿る恐怖が色を増していく。


「切腹はしない」

「龍馬さん!」

「僕らにはやらなければならないことがある。それを成し遂げる前に死ぬわけにはいかない」

「で、ですが、わ、私の実力では……」

「僕が逃がしてやる。君は薩摩藩邸へ逃げ込め」

「龍馬さん、本気ですか? 相手は百人を超える奉行人ですよ!」

「宮本武蔵は百人を斬ったそうだし、きっと僕にもできるよ。君は何も心配しなくてもいい」

「うっ……りょ、龍馬さん……私はこの恩を一生忘れません」

「早く行ってくれ。そして龍馬はここにいると西郷さんに伝えてくれ」

「は、はい」


 三吉は龍馬を置いて走り出す。彼の姿が見えなくなったのを確認すると、囮となるために僕はすっと息を呑み込み、大声で叫んだ。


「坂本龍馬はここにいるぞ!!」


 僕の声はすべての奉行人をここに集めることになり、三吉が逃げることも容易になる。僕は大人数相手でも可能な限り有利に戦えるようにするため、壁を背にして剣を構える。


 続々と集まってくる奉行人たち。しかし彼らはすぐに行動しない。確実に僕を捕まえるために一人でも多くの戦力を招集していた。


「幕府に仇なす大罪人よ。おとなしく投降する気はないか?」

「ないね」

「なら仕方あるまい」


 奉行人たちが僕を捉えようと動きを見せる。とはいえ百人すべてが一斉に襲えるはずもない。最初は三人が剣を振るう。


 僕は三つの太刀をギリギリで躱し、面打ちを連打で叩きこむ。崩れ落ちる三人の男たちに、他の奉行人は恐怖の色を瞳に滲ませる。


 退いてくれるか、という淡い期待はすぐに消え去る。武士という生き物は厄介で、恐怖で逃げるようなことは死ぬこと以上の恥だと考えているため、怖ければ怖いほど、より強く打ち込んでくる。


 斬りかかってくる剣が三人から五人に増えて、完璧に躱すことができなくなる。致命傷は避けているものの、肩を斬られ、腕を斬られ、足を斬られ、全身が血で染まっていく。


「意識が……」


 血を流しすぎたせいか、視界が歪み始める。剣を握る体力もなくなり、そろそろ駄目かと思った頃、聞き覚えのある女性の声が届いた。


「龍馬さん!」


 先に逃げていた楢崎龍が薩摩藩士を連れて戻ってきたのである。涙を流す彼女を見て、僕は小さく笑みを浮かべる。そして意識を失ったのだった。


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