第二章 ~『タイムスリップした寺田屋』~


「龍馬さん、起きてください、龍馬さん」


 僕の身体を誰かが揺らすと、どんよりとした視界が次第に鮮明になっていく。そこには切れ長の睫毛と整った顔立ち、そして絹のような黒髪をした女性の顔があった。


「さ、坂本さん!」

「龍馬さん、寝ぼけているんですか。私はお龍です。坂本は龍馬さん自身のことではありませんか」


 お龍と名乗る女性は口元に小さく笑みを浮かべる。僕は周囲を見渡し、ここが寺田屋の梅の間だと気づくも、建物の柱が新しくなっていることに気づく。僕は無事、過去にタイムスリップしたのだ。


 それならば、お龍と名乗る坂本そっくりな女性についても心当たりがあった。


「もしかして楢崎龍?」

「あら? 龍馬さん、私のことを忘れたんですか? 酷い御人ですね」

「いや、そんなことは……」

「嘘ですよ。昨日は夜遅くまで仕事していたようですし、疲れが溜まっているのかもしれませんね」


 楢崎龍はなんだか嬉しそうに笑う。僕は美しさと愛らしさが同居した彼女の立ち姿にハッとさせられる。


 認めたくはないが坂本は美人である。そしてその先祖である楢崎龍も彼女に負けないくらいの麗人だった。


 僕はマジマジと楢崎龍を見つめる。彼女は坂本龍馬の半生を語る上で欠かせない存在だ。であるにも関わらず、僕が今まで体験してきた龍馬の経験の中に彼女はいなかった。


 楢崎龍と出会わなかった理由は容易に想像がつく。追体験する際に僕は強敵と戦うことだけを望んできたため、このような穏やかな時間を経験することがなかったからだ。


 僕は歴史の一ページを思い出す。龍馬は最終的に、この目の前にいる美人と結婚するのだ。龍馬のことが嫌いになる理由がまたできてしまった。


「龍馬さんはおとぼけさんだねぇ」


 和室の襖を開けて、新たな女性が顔を出す。妙齢のふくよかな女性の正体は、ここが寺田屋であるのなら簡単に導き出せる。


「もしかしてお登勢さんですか?」


 お登勢というのは寺田屋の女将であり、楢崎龍の義理の親でもある。幕末志士たちを何人も救ってきた明治維新の隠れた立役者である。


「あらあら、私のことも忘れたのかい?」

「覚えてはいるけど、記憶が混乱していて……」

「この様子だと、龍馬さんがお龍と結婚しても苦労させられそうだねぇ」

「お登勢さん!」

「いいじゃないかい。あんたら二人は実質的に夫婦みたいなもんさ」

「でもお登勢さん、私なんかと夫婦だなんて龍馬さんに失礼じゃありませんか」

「僕は失礼だなんて思ってないよ」


 それどころかこれほどの美人と結婚できるのなら、龍馬という男は幸せ者だ。


「龍馬さん……無理しなくてもいいんですよ……」

「無理なんてしてないさ」

「ですが私は妹を連れていかれた時、小刀を持って悪人の屋敷を襲撃しました。そのせいで野蛮な女だと街でも有名です。こんな悪名高い私が妻に相応しいはずありませんから……」

「え……っ……」


 この娘、お淑やかな顔でそんな野蛮なことするの?


「ぼ、僕はそんな小さなことを気にする器の小さな男ではないよ」

「龍馬さん……だから大好き♪」


 楢崎龍が僕にギュッと抱き着いてくる。ふくよかな胸の感触が腕一杯に広がった。


「あ、そうだ、龍馬さん。こんなところで油を売っている場合じゃないよ」

「え?」

「忘れたのかい? 今日は大事な用事があるんだろ?」

「だ、大事な用事?」


 なんだそれ? 聞いてないぞ?


「龍馬さん、しっかりしておくれよ。海舟さんと一緒に西郷さんと会うと話をしていたじゃないかい」

「あ、ああ。そうだったね」


 僕は頭の中で歴史を紐解いていく。龍馬は歴史の中で幕府の家臣である勝海舟という男に弟子入りし、そこで航海術などを学んだのだ。そして西郷隆盛、彼は薩摩藩の藩士で、幕府軍の司令官でもあった。


 西郷は禁門の変という長州藩が御所の門を襲撃した事件で、見事、幕府を勝利させた英雄である。彼はこの事件で生き延びた長州藩士の残党討伐を政府から依頼されていた。


 だが倒幕を果たすためには長州の力を失うわけにはいかない。そこで龍馬が残党狩りを阻止しようとするのだが、そのための会合こそ、これから彼が向かう先だった。


「お登勢さん、ありがとう。行ってくるよ」


 僕は二人の女性に見送られながら、寺田屋を後にする。向かう先は薩摩藩の藩邸だった。


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