第一章 ~『千葉道場での龍馬』~


 僕は目を覚ますとすぐに腰に差した剣を確認する。いつもならすぐにでも真剣による殺し合いが始まるからだ。しかし周囲を見渡しても僕を襲う剣士の姿はなく、ホトトギスの鳴く声が聞こえてくるだけ。今回の追体験は平和な状況からのスタートらしい。


「まずは現状の認識からだ。風景から察するに、ここは千葉道場の裏庭かな」


 千葉道場。それは龍馬が江戸で修行をしていた道場であり、僕も過去に一度、記憶の追体験で来たことのある場所だった。


「この近くに井戸があったはずだけど……」


 道場の裏庭を少し歩いてみると、水をくみ上げる井戸が見えてくる。井戸の中を覗くと、水面に映る自分の顔が映し出される。


 筋の通った鼻、凛々しい眼つき、引き締まった体は、僕の忌み嫌う龍馬そのものだった。髪全体を後ろで束ねる総髪が、その凛々しい顔に似合っているから余計に憎らしい。


「龍馬くん」


 井戸を覗いていた僕に声をかけたのは、千葉重太郎という名の優しき武士の男だ。千葉道場が教える北辰一刀流の剣術師範であり、龍馬の師とも呼ぶべき人物だった。


「龍馬くん、また君は水面の自分を確認していたのかい?」

「また?」

「毎朝欠かさずに自分の身だしなみを確認しているじゃないか……でも君の気持ちも分かるよ。私も君ほどの美丈夫なら、何度だって自分の顔を見たくなるだろうからね」

「…………」

「そして君の服装。桔梗の紋が刻まれた袴と羽織は、五尺半ほどもある長身に実に似合っている。君は江戸一番の粋人だよ」


 龍馬の身長は五尺半、つまりメートル法に換算すると165~170センチほどだと言われており、江戸時代なら高身長だった。ちなみに体重は80キロほどだとも云われていたので、彼が如何に筋肉質な肉体をしていたかが分かる。


「こんなことを話している場合じゃなかった。龍馬くん、そろそろ稽古を始めるよ」

「稽古?」

「剣術の稽古だよ。ささ、僕と一緒に道場へ向かおう」


 重太郎に連れ添い、僕は道場を訪れる。道場特有の汗のにおいに包まれながら、稽古をしている他の剣士に視線を送る。


 現代の剣道と同じく、鉄面と小手で体を守り、竹刀で打ち合っている。このような防具を使っての剣術が流行ったのは江戸後期からで、徳川治世の元、平和な世が作られてきたことの証左ともいえた。


「龍馬さん、いらしてたんですね♪」


 鉄面を外して一人の女性が駆け寄ってくる。絹のような黒髪を頭の上でまとめた女性は、汗を拭いながら、僕に笑顔を向ける。


 切れ長の睫毛と整った顔立ち、そしてピシっと伸ばした背筋は凛々しさまで感じさせる。彼女は重太郎の妹のさな子であった。


「どうしたんですか、ボーっとして」

「い、いえ、美しい人だなと」

「もしかして寝ぼけているのですか? 口調もいつもの土佐弁とは違いますし……」

「これには色々と事情が……」

「ふふ、事情は聞かなくても分かりますよ。でも龍馬さんの土佐弁、私は可愛いから好きですよ。わざわざ矯正しなくてもいいと思います♪」


 坂本龍馬は土佐出身のため、語尾も訛っていた。本物に合わせるなら僕も土佐弁を話すべきなのだろうが、東京生まれの僕に方言を真似できるはずもない。


 それに江戸時代でも方言を恥ずかしいと感じる者がいたのは事実だ。彼女も、僕が恥ずかしいから方言を治そうとしていると理解してくれたのか、深く追求してくることもなかった。


「それで龍馬さんはどうして道場に?」

「稽古でもしようかと」

「さすがは龍馬さん。努力家ですね」

「僕なんかはまだまだですよ。なにせ、さな子さんは朝から稽古をしていたのでしょう」

「ふふふ、龍馬さんに負けっぱなしですからね。強くなって、いつかあなたから一本を取ってみせますから♪」


 いくら鈍感な僕でもさな子の声に過分な好意が含まれていることに気づく。これこそ僕が龍馬を嫌いな理由、その一である。


 龍馬はとんでもなく女にもてるのだ。千葉道場には噂の龍馬を一目見ようと、女性が集まってくる事件が起きた事もある。もしこれが現代なら龍馬は歌舞伎町の夜王になることも夢ではなかっただろう。


 本当、世の中は不公平である。僕なんて生まれてから一度も恋人ができたことがないのに、龍馬は誰を恋人にするかを選ぶのに苦労するのだ。


 しかも龍馬は地元に美人の幼馴染までいる。天が二物も三物も与えた存在こそ彼なのである。


「さて龍馬くんの稽古だけど――」

「私が相手をします」

「さな子、お前は駄目だ」

「兄さん!」

「さな子では龍馬くんの稽古にならないだろ」

「むぅ、それを言われると反論できませんけど、なら誰が龍馬さんの相手を?」

「僕が相手をするよ。それで龍馬くんもいいかな?」

「望むところです」


 僕は鉄面や小手などの防具を身に纏い、竹刀を拾い上げる重太郎を見据える。互いに剣を構えて向かい合うと、僕は心臓が震えあがるのを感じた。


「やっぱり現代人とは違うなぁ」

「ん? どういう意味だい?」

「こちらの話なので、気にしないでください」


 千葉重太郎は北辰一刀流の最上位の階位である大目録皆伝であり、千葉道場の中では五本の指に入る強敵である。


 大目録皆伝を取得するには、北辰一刀流の奥義である『星王剣之位』を習得する必要がある。これはどのような状況でも対応できる自然体を維持し、電光石火のように即座の反応を示すことのできる構えのことである。


 事実、上段に構えた重太郎に隙は見当たらない。剣道部の活動では決して出会えない強敵に心が震える。


「では互いに構えて。始め!」


 審判により開始の合図が鳴る。重太郎は上段を高速で振り下ろすが、それと同時に僕も剣を振るう。互いの剣が衝突し、竹刀がぶつかる破裂音が響く。


「凄い剣ですね……」

「龍馬くんにそう言ってもらえると私も嬉しいよ」

「ですがあなたの剣は一度経験済みだ」


 重太郎が竹刀を僕の頭に振り下ろそうとするが、そこに合わせる形で間合いに入り、胴を剣で斬りこむ。審判の勝負あり、との言葉で道場の空気が弛緩した。


「いや~、さすがは龍馬くんだ。また強くなったね」

「今回は運が良かっただけです。次戦えばどうなるかは分かりませんよ」

「龍馬さん、汗を拭くのにこれを使ってください♪」


 さな子が手拭いを渡してくれる。道場にいた門下生たちも、さすが龍馬さんだと称賛する。これだ。これこそが僕の龍馬を嫌う理由、その二である。


 なぜ僕が倒したのに、褒められるのは龍馬なのだ。折角の頑張りが報われないことに、僕は少なくない不満を抱いていた。


「手拭い、ありがとうございます」

「いえ、龍馬さんのためですから♪」


 僕が手拭いをさな子に返すと、彼女は顔を真っ赤に染める。エベレストに登った登山家は頂上からの景色で人生観が変わったというが、イケメンから見える景色も同じくらい僕の人生観を変えるだけの衝撃を与える。美形は正義なのだと痛いくらいに思い知らされた。


「龍馬さん、重太郎さん!」


 千葉道場の門下生が額に玉の汗を浮かべながら道場に飛び込んでくる。ただ事ではないことが、その表情から伝わってくる。


「どうしたんだい?」

「辻斬りです。辻斬りが出ました!!」


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