第一章 ~『岡田以蔵との闘い』~


 辻斬り。それは江戸の人々を震え上がらせた凶悪犯罪である。その目的は刀の切れ味を確認するためや、自分の武芸を試すためなど様々な理由があるが、江戸後期に流行った辻斬りは幕府への抗議という名目で金銭を奪う強盗に近い行動だった。


 当然、辻斬りは重罪であり、死罪は免れない。だがそれでも辻斬りは頻繁に出没した。これは武士という生き物が死ぬことを恐れていないために、死罪の抑止力が小さかったのも理由の一つだ。


「私は現場へ向かうが、龍馬さんはどうする?」

「僕は犯人の逃走経路を先回りしますよ」


 重太郎は龍馬の提案に首を縦に振ると、辻斬りが出た場所へと駆ける。僕は彼が進んだ方向とは逆方向に進み、腰から刀を抜いて夜の街道を歩く。人がいない静かな空間。辻斬りするには絶好の場所だった。


「そろそろかな……」


 僕がこの辻斬りと戦うのは初めての経験ではない。過去に経験したため、どこから姿を現すかも既に知っている。


「そこにいるんだろ。出てきてくれないか?」


 僕が問いかけると、暗闇から刀を持った人影が姿を現す。人影は暗闇に紛れているため、ぼんやりとしたシルエットしか分からないが、僕にはそいつの正体が分かる。


 この人影は幕末の四大人斬りの一人である岡田以蔵だ。龍馬と同じ土佐出身の武士で、鏡心明智流の達人だった。


「恨みはないじゃが、命と金を置いてけ」


 僕は何度も聞いた土佐弁の台詞に小さく笑いを零す。お気に入りの映画のワンシーンを繰り返し見ていると、それは面白さから可笑しさへと変わる。いつも通りの予定調和に身を任せて、剣を上段に構える。


 対する以蔵は真剣を中段に構えると、白銀の刃の切っ先を僕へと突きつける。


 防具もなければ、竹刀でもない。真剣での命のやり取り。無気力な人生を過ごす僕が唯一楽しめる刺激的な時間。それこそが剣士と剣士が命を賭ける死闘である。


「参るぜよ!」


 以蔵は足を動かし、小さな面打ちを連打する。素人の目には追うことさえ難しい猛攻だが、そのすべてを剣で受け流していく。


「そろそろかな」


 以蔵は執拗に面打ちを繰り返す。これは刀が上から降ってくると意識させるのが狙いだ。つまり本命は別にある。


「これで終わりじゃ!」


 以蔵は面打ちで引いた刀を僕の喉へと向けると、一歩、足を大きく踏み込み、必殺の突きを放つ。面打ちに意識を集中させてからの突きは、何も知らない者なら意表を突かれて、そのまま串刺しになるだろう。


 しかし僕は以蔵と戦った経験があり、面打ちからの突き打ちも想定通りであるため、あたかも予知したかのように刀を躱すことができた。そして返す刀で、胴を袈裟切りにする。峰打ちだが体重を乗せた一撃は彼を悶絶させるに十分な威力があった。


「わ、わしの剣を躱すとは、お主はいったい……」


 以蔵の質問に答えるべく、顔を彼へと近づける。僕の、いや、龍馬の顔に見覚えがあったのか、以蔵は目を見開く。


「りょ、龍馬!」

「久しぶりだね、以蔵」


 岡田以蔵は坂本龍馬と同じ土佐出身の幼馴染である。二人が接点を持つに至ったのは、以蔵の師匠である武市半平太と龍馬が遠い親戚同士であったためだ。友人の友人は友人になる。武市半平太の親友であった龍馬が以蔵と友人になるのも当然の流れであった。


「龍馬がどうしてここに?」

「君が辻斬りをしていると聞いたからね。止めに来たんだ」

「それは……いや、それよりも、先ほどはすまんかった。龍馬だと知っていれば、襲うことはなかったのじゃが……」

「僕が襲われたことは構わないさ。それよりもどうして辻斬りなんて真似を?」

「実は……どうしても金が入用になったんじゃが、わしには金を稼ぐ知恵もなければ、知り合いもおらん。できることといえば、人を斬ることくらいしかなくてなぁ……」

「なぜお金が必要かは教えられないかい?」

「すまん……」

「仕方ない。幼馴染の君のためだ。辻斬りをしないといけないほどに困っていたんだろ。これを持っていくといい」


 僕は懐から財布を取り出す。それは春財布といわれる巾着袋を紐で締める形状の財布で、『財布の紐を緩める』の語源にもなっている。僕は財布から金を取り出すと、以蔵に手渡した。


「龍馬、こんな大金、受け取れん」

「辻斬りをしてでも金が欲しかったんだろ。遠慮せずに受け取ってくれ……ただ二度と馬鹿な真似はしないと約束してくれ」

「龍馬……しかし……」

「それに僕の実家は金持ちだ。仕送りがたんまりと届くから、これくらいのお金、はした金さ」


 龍馬はイケメンで女からモテるだけでは飽き足らず、酒造業や呉服屋を営む豪商の血筋であるために、実家が金持ちの御曹司なのである。


 龍馬が江戸で修行する際に実家から送られていた仕送りの金額は諸説あるが、月に二両以上、現代価格に換算すると月に26万円相当のお金を受け取っていたと言われている。故に彼は金銭的にも十分な余裕があったのだ。


「龍馬……かたじけない……」


 しかし金を受け取った以蔵は、龍馬が貧乏であるにも関わらず金を与えてくれたと誤解していた。これは土佐の身分制度が影響している。


 土佐の武士は権力者である上士と、身分の低い下士の二つに区分されており、龍馬も以蔵も下士に位置していた。


 下士は給金も少なく、生きていくだけで精一杯の毎日を送るのが常である。しかし一部例外もあり、その例外こそが坂本家であった。


 龍馬の実家は元々商人の地位にあったが、金で武士の身分を買ったため、金銭的に裕福だったのだ。それを知らない以蔵は涙を流して感謝する。


「この恩は絶対に忘れん……龍馬のためなら、この命を捨ててもええ」

「ありがとう。でも気持ちだけで十分だよ」

「龍馬……」

「ほら、早く行くんだ。ここでじっとしていたら、役人に捕まるよ」


 以蔵は何度も何度も頭を下げると、その場を後にする。彼の表情には溢れんばかりの親愛が含まれていた。


「はぁ~これなんだよ」


 僕が龍馬の嫌いな理由、その四である。なんとこいつは男にも好かれるのだ。僕が友人を一人も作れず困っているのを尻目に、龍馬という男はいともたやすく友情を結ぶのである。自分に嫉妬しているようで複雑な気分だが、何だか釈然としないものを感じた。


「うっ……っ……」


 以蔵を見送ると、頭に強い衝撃が奔る。これは場面が切り替わり、現代の才谷へと戻る前兆だった。


 僕の視界は白一面に染まる。光の奔流に包まれた僕は意識を失うのだった。

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